![]() |
●「ウンモ星人ミステリー」など、事件名の頭文字が(あ〜お)のページです。
トップページ > 不可思議事件 > 怪奇・不可思議事件集1(あ〜お)
索引欄(あ〜お)
事件名の頭文字で検索
●アイヴァン・サンダーソンの不思議な体験 |
探検家, 博物学者, 著述家として有名な アイヴァン・T・サンダーソン(Ivan Terence Sanderson) が彼の妻と助手の3人でハイチに出かけたおり, 不思議な事に遭遇した。 サンダーソンは, 彼の著書 『続・怪事象』 のなかで, ハイチ(Haiti)での不思議な出来事を述べている。 それによると, 当時彼は, 現地の生物調査のためポント・ブーデという街に滞在していた。ある日, サンダーソン夫妻と助手のフレデリック・G・オルソップの3人は, アズエイ湖(Lake Azuei)という湖にドライブに出かけた。湖に着くと, 帰りは舗装されていない古い土道を通って近道し, 南行き幹線道路に出ようということになった。ところが40マイルほど行ったところで, 車が泥にはまりこみ, 3人は歩くよりほかなくなってしまった。 やがて夜になり, だいぶ歩いた3人は, 側溝のないほこりをかぶった完全に一直線の道路に出た。彼らは疲労困憊(ひろうこんぱい)し, 道ばたで休んでいると, あるアメリカ人医師の乗った車が現われたが, その車はすでに満員だった。医師は後で迎えにくると言い残して, 走り去った。 3人は月明かりに照らされ, その場所で休んでいると, 突然, なんの前ぶれもなく, それは起きた。 道路は急にあちこちに大きな敷石の見えるぬかるみに変わり, 両側にはさまざまな大きさと形の三階建ての建物がずらりと並んでいた。それはイギリスのエリザベス王朝風の建物だった。 サンダーソンはなぜか, 自分たちが今いる場所はパリだと感じた! 夢のようなフランスの家々は差掛け屋根をもち, 屋根窓や切り妻屋根, 木製の前廊, 鉛ガラスのはまった小さな窓などのある建物もあった。あちこちの窓が, まるでキャンドルの灯りがともっているように, 鈍い赤味をおびた光に染まっていた。あちこちの建物から突き出した木材に鉄枠のランタンがぶらさがり, まるで風に吹かれるようにそろって揺れている − だが, 風はそよとも吹いていなかった。 サンダーソンが見たのは古びたパリの街角だった, それも500年前(14世紀)の・・・。夫人にも, 夫と同じものがはっきり見えていた。二人は街の様子を目に焼きつけようと, 街並みの中を歩き回った。ところがそのとき, 後方で座ってたばこを吸っていたオルソップの姿が, 急に薄れて消えそうになってきた。 急いで二人は, オルソップのところに戻った。あわてて走ってきた二人にオルソップは, 何も見ていないといい, ただ座って車を待っていただけだと答えたという。 【参考文献】 ●『四次元宇宙の謎』【5章/ 時間の壁を越える】1981年, 著者:ラモン・バルデス・ジュニア, 訳者:南山宏 ●『X-ZONE(NO.27)』【つかのまの幻視者】, 1997年 Tweet 【参考外部】 ●Wikipedia(ハイチ) |
●アグネス・ニコルの驚異的心霊現象 |
1866年のことで, アグネス・ニコル(後のガピ夫人) は, アルフレッド・ラッセル・ウォーレス博士 のもとでの降霊会の実験で, 驚異的な心霊現象を現わした。 ウォーレス博士の研究は, 1865年の夏から始まり, 霊媒者 メアリー・マーシャル夫人 の催す 降霊会 に出席した。ウォーレス博士はマーシャル夫人の起こす心霊現象 を, 白日のもとで観察し, からくりのないことを確認したといわれる。博士は, 特にマーシャル夫人の媒介によってつづられる, 霊界からのメッセージに印象づけられ, 関心を示したという。 からくりを完全に締め出そうと考え, 博士はイングランドにある自宅で降霊会を実施することにした。そして, 1866年9月から, 若い霊媒者アグネス・ニコル(後のサミュエル・ガピ夫人)を研究対象にして, 謎の解明に取り組んだ。 ニコルの降霊会には, 物体(特にいす, テーブルなど)が浮き上がるという現象があった。また, テーブルの上にいろいろな 物が出てくる(アポーツ)現象 もあった。 それは, 真冬のことである。ガス燈に照らされた博士の暖かい部屋で降霊会は行なわれた。この夜の降霊会は, 4時間にもわたって行なわれた。参加した人々は, 若いニコルの心霊現象に見入っていた。そして, その最後に驚かずにはいられない驚異的な現象を目にしたのだった。 部屋の中央に置かれたテーブルの上に, アネモネ, チューリップ, キク, サクラソウ, それからシダといった多くの花々が突然, 現われ出て, うず高く積み上げられたのだった。その草花はどれもみな, いま温室から摘んできたばかりかと思えるほど鮮やかだった。花には冷たい露が光っており, 花びらの一つ一つに損傷はなく, 葉にも傷を見つけることはできなかった。この実験のための降霊会は, 博士の家で行なわれたため, 霊媒者があらかじめ用意した, からくりでないことは確かなはずである。 ニコルは, 草花を希薄な空気から現出させるこの心霊現象を, 何百回となく行なったといわれている。疑う人を納得させるために, 何度も列席者の要求に応じてやってみせたという。あるときなど, 降霊会に出席したウォーレス博士の友人が, ニコルにヒマワリの花を出してみてくれないかと言うと, 1.8メートルもあるヒマワリが, 根元に土をつけたまま出てきたという。 ![]() (★愛児を抱くガピ夫人) 【参考文献】 ●『心霊の世界』【第3章/ ついに科学者が乗り出す】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年 Tweet 【参考外部】 ●En.Wikipedia(Agnes Guppy-Volckman) ●psychictruth.info(Medium Anges Nichol Guppy. England. UK. ) ●encyclopedia2. thefreedictionary. com(Guppy-Volckman, Agnes Nichol) |
![]() |
● |
△ |
![]() |
●雲塊どおしの激突 |
1874年7月28日, アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグ(Pittsburgh)に近いミル河(Mill Creek)付近の上空で, 不気味な二個の雲塊が激突して,
付近の住民を驚かせた。 この日の午後, 周囲に赤い帯をまきつけているように見える, まっ黒な雲のかたまりが東西の空に突然あらわれた。 一方は北東の地平線から, もう一方は西南のほうから, 風にさからい同じ高度を見る見るうちに接近した。 やがて二つの雲のあいだに激しい争いにも似た稲妻の応酬があった。その衝撃で大地はビリビリと振動した。 まもなく, 両者は真正面から激突した。天が爆発したかと思われるような, すざましい光景が30秒ほどつづいた。そして, 稲妻と轟音が静まったとき, 豪雨が降り注ぎはじめた。 それはまるで天の底が抜けたかのようなものすごいものであった。数十分の土砂降りで, ミル河はたちまちあふれかえった。 堤防がきれ, 濁水は家や家畜を押し流し, 数百名の人名をうばった。 当地の人々は, 「あれは雲ではない。悪魔どおしの闘いだったにちがいない」 とうわさしあった。 【参考文献】 ●『世界の奇跡』【世にもふしぎな物語;天の異変】1964年,著者:庄司浅水 Tweet |
●ウンモ星人ミステリー |
1965年を境に, "UMMO(ウンモ)" 星人からと称する不思議なレポート受け取ったという人々が, マドリッドを中心に約20人ほど現われていた。 マドリッドに住む建築士のスペイン人エンリコ・ベラグラッセ・ノボアは, ある日, "宇宙人" と称する得体の知れない者から電話を受けた。 相手は地球外のことについて延々としゃべり続けた後に, 技術的なことで知りたいことがあれば何でも教えるといったので, ノボアはいくつかの質問をして電話を切った。 数日後, ノボアのもとにその相手から科学的主題が盛りこまれたレポートが送られてきた。そのレポートはきれいにタイプされており, レポートの1枚1枚には, あるマークが押されていた。そのマークは, 拇印のようにも見えた。H文字をくずし, そこに垂直に1本の線が入れてあり, ウラヌス(天王星)を表わす占星術上の記号にも見えた。 ノボアの体験は, 友人のジュリアン・デルガを介して, スペインの著名なUFO研究家である アントニオ・リベラ(Antonio Ribera) 氏に伝えられた(1967年春)。 デルガの話に真実性を感じたリベラ氏は, いつしか "UMMO" という得体の知れない存在の研究にのめり込んでいった。そして, リベラ氏自身にも "UMMO" からミステリーなレポートが届くようになった。 1965年を境に, "UMMO" 星人からと称する不思議なレポートを受け取ったという人々が, マドリッドを中心に約20人ほど現われていた。この人々は, 著名な作家, 技師, 弁護士, 公務員など, いろいろな仕事に従事していて, スペインの活動的な中心人物ばかりであった。リベラは, このなかの1人, ラファエル・ファリオルス(Rafael Farriols) 氏と親しくなり, "UMMO" の解明に全力をそそいでいった。 それから数か月後に, "UMMO" 人の存在を裏付ける事件(ウンモ星人UFO着陸事件)が発生した。1967年6月1日の夕暮時, マドリッド郊外のサンホセ・デ・バルディラスにUFOが現われ, たくさんの人に目撃され, 写真にも撮られたのである。 UFOの底部には, レポートに印されていたのと同じ "UMMO" の象徴ともいうべきマークが認められた。そして, このUFOは, そこから4キロメートル先のサンタモニカ郊外にあるレストラン近くの空き地に着陸した後, 飛び去っていった。 驚くべきことには, この事件がリベラ氏らには, 事前に知らされており, 謎のレポートには, 着陸地点の見取り図まで添えられていたのだという。 "UMMO" 問題に関わりをもった40名ほどの人々が, スペインの宇宙友好協会の会長であるフェルナンド・シズマ教授とともにミーティングを行った。そしてシズマ教授は, これを本にまとめて世間に公表した。"UMMO" からのレポートを大別してみると, 次のようになる。 ●生物学をベースに, 宇宙にすむ生物の生態について ● "UMMO" の飛行艇について ● "UMMO" の星について ●心理学, 社会学, 哲学に関して これらのレポートは, 非常に高度な科学レベルで書かれている。 "UMMO" 人は, われわれとは異なった宇宙像をもっている。彼らによれば宇宙はn次元で考えなくてはならず, "UMMO" では最低でも10の次元を考え, 一応6〜7次元を考えれば, 何とか現実に近いものが得られるとしている。 また彼らは, われわれの科学が物質の根元だと思っている素粒子は, 実は幻のようなもので, IBOZOOと彼らが呼ぶものこそ, 万物の真の構成物質だといっている。これを利用することによって, 信じられないほどの短時間で次元を越えて, 星間旅行を成しとげているというのである。彼らは, この方法で地球まで, 8〜9ヵ月でやってきたことを, レポートに記している。 【参考文献】 ●『UFOと宇宙(NO.52)』【ウンモ星人ミステリーとはなにか】, 文:日高実男, 1979年 Tweet ![]() ■サイト:「es.wikipedia(Ummo)」から ![]() ■サイト:「Rense.com」から フェルナンド・セスマ(Fernando Sesma) が, 「愉快な鯨」 でユミットの手紙を読むということを数年続けた1967年5月30日, ユミットからの奇妙な手紙を受け取った。この手紙の宛名にはイギリス人4名, フランス人2名, チェコ人, イタリア人各1名の名前が記されていた。 その手紙には, 彼らの惑星から3機の円盤が近日中に地球に到達するであろうことが記されていた。アントニオ・リベラ(Antonio Ribera) の著書には, その全文が引用されているが, 一部を紹介すると, 『われわれの計算では惑星ウンモからの宇宙船が降下するのは, グリニッジ標準時1967年5月30日午後9時から1967年6月3日午後11時6分の間(予測可能な誤差を考慮して)である。3機が到着する間隔は, 7時間プラスマイナス20分を超えないであろう』 3つの着陸地点が示されていた。ひとつ目はボリビアのオルオという町を中心に平均半径約104キロの範囲。2番目はブラジルのサン・アンジェロ近郊で, 3番目に挙げられたのがマドリッド周辺, 半径46キロの範囲でその中心は西経3度45分20.6,北緯40度28分2.2の地点である。 「愉快な鯨」 のメンバーは, 直ちにセスマから報告を受けた。UFO到来の予告が確かにあったことを証明するため, 日付入りの書類を作って全員が署名しておくことにした。それからメンバーたちは, カメラ持参でマドリッド近郊の広い地域にわたって監視に出掛けた。 宇宙船着陸の瞬間を目の当たりにした者こそいなかったが, 数人の円盤目撃者によると, 円盤は1967年6月1日, サン・ホセ・ド・ヴァルディラスという場所にある団地の近くに着陸し, 着陸用の折りたたみ式の脚が地面にくっきりと跡を残していったという。 ニュースは直ちにスペインじゅうを駆け抜けた。ラジオのニュースを聞きつけた ラファエル・ファリオルス(Rafael Farriols) が現場に直行すると, 目撃者でエンジニアのヴィラグラーサ(「愉快な鯨」 のメンバーの一人)がカメラを肩に掛け, 極度の興奮覚めやらぬ面持ちで立っていた。 事件後, しばらくするとマドリッドの新聞社に一人の男が現われて, 着陸のときの写真があると言ってきた。写真は, 匿名希望の別の人物から頼まれて持ち込んだものだという。このため撮影した人物は不明であったが, 宇宙船は欠けることなく鮮明に写っていた。 10年後の1977年になって, フランス国立科学研究庁のなかにGEPAN(未確認航空宇宙現象研究グループ)が創設されると, クロード・ポエールはデジタルミクロフォトメーターと呼ばれる器械を使って, ヴァルディラスの主なUFO写真の分析を開始した。そして写っている物体はミニチュアを糸で吊り下げたものにすぎないことが判明した。ポエールの結論は, ウンモ事件とは科学者たちが寄ってたかってでっちあげた, 壮大な冗談にすぎないというものであった。 それから何年も後になって, ユミットから一通の手紙が届けられた。そこには, ヴァルディラスの写真はトリックを使っているが, それはこの着陸事件があまり深刻なものにならぬよう, 情報操作をしておいたのだということが述べてあった。 この着陸事件についての情報はもうひとつある。現場周辺から発見されたステンレス製の小さなパイプを壊してみると, 中にはプラスチックの薄い灰色のプレートがあり, その上にはどの手紙にもついているウンモの記号が浮き彫りになっていたのである。後日の分析の結果, このプラスチックはポリビニールであることが判明した。その後, この些細な事実が重要な意味を帯びてくるようになる。 【参考文献】 ●『宇宙人ユミットからの手紙』【第6章/ 予告された着陸】, 著:ジャン=ピエール・プチ, 訳:中島弘二, 1993年 Tweet ![]() ■サイト:「RAWIllumination.net 」から 【参考外部】 ●UFO事件簿 (ウンモ星人) ●矢追純一オフィシャルブログ (UFOは存在するとかしないじゃない155) ●ixi (【UFO】ウンモ事件 【UMMO】) ●UFOに乗りたくて。 (スペイン発:ウンモから来た宇宙人は実在した?) ●megalithic Pyramid of Japan (ロズウェル墜落UFOの残骸の記号群の考察) ●Es. Wikipedia (Ummo) ●Fr. Wikipedia (Ummo) ●ummowiki. fr (Evolution) ●Mysterious Universe ("SPEAK LOUDER" Asked the Aliens from Planet UMMO) ●RAW llumination. net (Online exhibit on the UMMO letters) ●UFO-FYI (UFOs One Year at a Time: 1967- The UMMO Affair) ●FANDOM (Ummo Aliens) ●obs curantist. com (UMMO) |
●ウールピットに現われた緑色の肌の2人の子ども |
1173年, イギリスのサフォーク州のウールピットで, 深い塹壕から這い出てきた2人の少年, 少女が見つかった。彼らの肌は, 緑色をしていた。 サフォーク州のウールピット(Woolpit, Suffolk)というこの村は, かつて捕獲したオオカミを入れた深い塹壕(deep trenches)にちなんで付けられた名前です。 1173年のある日, 地元の村人たちは, 2人の子供がこれらの塹壕の1つから這い出しているのを見つけて非常に驚きました。なぜなら, 少女と少し年下に見える少年は, どちらも奇妙な服を着ており, 理解できない言葉を話していたからです。しかし, もっと驚いたのは, これらの子供たちの肌の色が緑色であったことです。 彼らとコミニケーションをとることができず, 当惑した村人たちは, 泣きながら非常に悲しんでいる少女と少年を, 地元の地主である, リチャード・デ・カルネ卿(Sir Richard de Calne)の家に連れて行きました。そこで2人は, リチャード卿と彼の使用人によって, 親切に注意をはらって扱われて暮らしました。 しかし, 少年は病気になり, 1年も経たないうちに亡くなりました。幸いなことに, 少女は生き残り, 年をとるにつれて肌の緑の色合いは徐々に消えていきました。 そして, 彼女は最終的に, ノーフォークのキングスリン(King's Lynn in Norfolk)出身の男性と結婚をしました。いくつかの情報源によると, その後彼女は, ヘンリー2世(Henry II)の上級大使(a senior ambassador)のアグネス・バレ(Agnes Barre)として知られるようになったということです。 リチャード卿の家にいる間, アグネスは英語を学び, 最終的に彼女と彼女の兄弟がどこから来たのか, そして彼らがウールピットにいたのかを明らかにすることができました。それによると彼女は, 彼らが聖マーティンの土地(St. Martin's Land)と呼ぶおだやかな場所(Christian place)から来たと主張しました。 そこは, 常に夕暮れであり (この物語が記された中世の年代記によれば, そこはすべてが緑色でした), 広い日当たりの良い場所から川で隔てられていました。ある日, 畑で父親と羊の群れの世話をしていると, アグネスと彼女の兄弟は, 教会の鐘の音につられて地下に迷い込んだそうです。そして, どういうわけか, ウールピットにいることに気づいたということです。 ![]() 【参考サイト】(画像も含む) ●「thinkaboutitdocs.com(1173: 2 Strange children in Woolpit, Suffolk, England)」 Tweet 【参考外部】 ●En.Wikipedia(Green children of Woolpit) ●historic-uk.com(The Green Children of Woolpit) ●mentalfloss.com(The Mystery of the Green Children of Woolpit) ●ancient-origins.net(The Green Children of Woolpit: Legendary Visitors from Another World) |
![]() |
●映画俳優エディ・ブラッケンの不思議な心霊体験 |
第二次世界大戦中, 映画俳優エディ・ブラッケンは, 慰問公演に出かけた先で, 不思議な心霊体験をした。![]() (★アメリカの俳優, コメディアン, 歌手であるエディ・ブラッケン(1915-2002)) ■サイト:「Wikipedia(エディ・ブラッケン)」から アメリカの映画俳優エディ・ブラッケン(Eddie Bracken)は, 第二次世界大戦中に太平洋地区各地の前線へ何度も慰問公演に出かけていた。 それは, ブラッケンを含めた男性2人と女性5人のグループで, グァム島での公演のときのことである。昼間は公演で忙しかったが, 夜はなにもすることがない彼らは, ある晩, ブラッケンの思いつきで, ウィジャー盤 遊びをしてみることにした。 彼は, さっそくかねて耳にしていたことを頼りにウィジャー盤を作り上げ, 一同で板に手をのせて実験を始めた。初めのうちは, 思うように結果をださなかったウィジャー盤だったが, マキシン・コンドラという若い女優が手をのせるや, 突然, その板は 「DON’T GO」 という文字を綴り出し, つづいて 「I」 と 「W」 と 「O」 とを綴った。 つづいて, 「このメッセージを送っているのは誰ですか?」 と問いかけると, 板は 「チャールズ・コフ(Charles Coff)」 と男の名前を綴った。そこで, 「お前は生きているのか, 死んでいるのか?」 とたずねたところ, 「死んでいる」 と綴った。重ねて出身地と亡くなった日を聞くと 「シカゴ」 と 「1944年7月20日だ」 と綴り, 死因を聞くと 「グァム島進攻のさいに死んだ」 と綴った。 そこで, 今どこにいるのか? とたずめると - 「Agana N.C.」 という文字と 「323」 と 「17」 という二つの数字, 最後に 「Grey」 という語が綴り出された。 ≪まとめ≫ウィジャー盤を用いての質問と回答 ●最初 => 「DON’T GO」、 「I」 「W」 「O」 ●「送り主は?」 => 「チャールズ・コフ(Charles Coff)」 ●「生存の有無?」 => 「死んでいる」 ●「出身地は?」 => 「シカゴ」 ●「死んだ日は?」 => 「1944年7月20日」 ●「死因は?」 => 「グァム島進攻のさいに」 ●「現在の居場所は?」 => 「Agana N.C.」 「323」 「17」 「Grey」 これらの回答を, どうしても解釈がつかないままで, 翌日, 彼らのグループは, グァム島内の別の公演場所へジープを走らせていた。 ふと誰かが, 「Agana N.C.」 と書いた道標を見つけた。そこでジープを降りて調べてみると, そこは墓地で, 「N.C.」 というのは 「National Cemetry(国有墓地)」 の省略であることがわかった。そうなると, 前夜 綴り出された二つの数字はひょっとすると, この墓地の中の墓の位置を示すものかもしれないと思った彼らは, さっそく323列目の第17番目の墓が調べられたが, それはチャールズ・コフの墓ではなかった。なーんだということで, 彼らはふたたびジープに乗り, 目的地へと急いだ。 ところが, グァム島での公演が終わり, 次の公演地であるサイパン島へ彼らが移動すると, 「最近,血なまぐさい激戦のすえ, アメリカ軍が陥落させた小さな島を公演の順路の中にいれてほしい」 と係官から頼まれた。それは, 硫黄島だった。 そのためブラッケンらのグループは, サイパン島での公演が終わり, 硫黄島へ行くことになっていた。が, どたんばでその公演は中止となり, 飛行機には乗らず終いだった。ところが, 一同が乗っていくはずだった飛行機が消息を絶ったのだ。一同は, 危ういところで難をのがれ, ほっとしたのだが, そのとき先日のウィジャー盤が綴り出したメッセージの 「Don't Go Iwo」 を思い出した。つまりそれは, 「硫黄島(IWO)へ行くな」 と警告を発していたことに気づいたのだった。彼らが, メッセージを受けたときには, 硫黄島などという小さな島の名前を知る者など, 誰もいなかったのだ。 その後, 一同はアメリカへの帰途, グァム島にもう一度立ち寄ることになった。ところが, その際, 前回ウィジャー盤を用いたときに居合わせた連絡将校で, 「Agana N.C.」 という道標を発見したときも一緒だった係官が, 一同を待っていて, すぐ一緒に来るようにと, しゃにむに一同を前の墓地へ連れ出した。 「実は, あの二つの数字をもう一度別の方法で, ためしてみようと思ったのです。つまり, 323列目の第17番目の墓ではなく, 17列目の323番目の墓を調べてみたのです。すると, ごらんなさい」 と, その係官が指さした所を見ると, そこにはなんと, 「Charles Coff」 という一兵卒の名前が, はっきりと刻まれていた。 そして, その銘から, この兵士はシカゴの出身で, 1944年の7月20日, グァム島の激戦で戦死したことがわかったのだ。 【参考文献】(下記より抜粋引用) ●『世界の四次元現象U』【心霊現象の神秘/ある映画俳優の奇怪な体験】, 著者:高梨純一, 監修:南山宏, 1972年 Tweet 【参考外部】 ●En.Wikipedia(Eddie Bracken) ●YouTube(What's My Line? - Eddie Bracken (Sep 7, 1952)) |
![]() |
●遅れて届いたTV電波 |
すでに消滅し, 放送されていないはずのTV電波が, 3年後の1953年にキャッチされた事件(「クリーTV局」受像事件)。 放送関係者も首をひねる, この不可解なミステリーは, 1953年の夏から翌年の冬にかけて, 一度ならずも何度も繰り返し発生した。 受像されたのは, アメリカのテキサス州ヒューストンのクリーTV局(KLEE-TV)のテスト・パターン画像だが, それがヒューストンの近辺ではなく, 遠く離れた南部イギリスでキャッチされたのだ。 アメリカのTV電波が, イギリスのブラウン管に映ったというTV電波の異常長距離伝播。それだけでも素人にとっては興味深いため, アメリカのクリーTV局には問い合わせの手紙が殺到した。 ところが驚いたのは, アメリカのTV局関係者の方であった。 なぜならクリーTV局は, その3〜4年前に局名が変わり, KPRC-TVとなり, それ以来, 旧名クリーのテスト・パターンは一度も使用していなかったからだ。 長距離の異常伝播というなら, ごく稀にだが, あり得ないことではない。 しかし, 何年も前に廃止された局名が受像されたとなると, これはもう ”幽霊電波” 以外のなにものでもない。 KPRC-TV局のポール・ヒューンドルフ主任技師の報告によると, この幽霊電波がキャッチされたのは, イギリスのロンドン周辺とアメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーの近辺に集中している。 とくにロンドンでは, 1953年9月14日から1954年1月8日までの間に何度も受像され, 証拠の写真を撮る余裕さえあった。 それのみではなく, 2年後の1955年11月23日になってもなお, イギリスのランカシャー州モーカム(Morecambe)でキャッチされた。 この時, それを受像したのは長距離のTV電波受像を研究している電子専門家のH・ティラー技師であった。 イギリスのTV受像機に映った, そのテスト・パターンの証拠写真を, KPRC-TVのヒューンドルフ主任技師は慎重にチェックしてみたが, 間違いなくクリー局のものであり, どこから, その原文字板を手に入れたのか, まったく見当がつかないという。 当時, ビデオ装置は開発研究中であったし, 原文字板を偽造するとしても, それを放送する装置は10万ドル以上に達したはずで, むろん違法である。 1960年になって, アメリカの 「ヒューストン・ポスト」 紙は, 「この事件はイギリスのある老発明狂のしわざであり, テスト・パターンのカードのコピーを再放送したに過ぎない」 と報じたが, この記事自体もまた曖昧なところがあった。老発明狂についての名前, 住所さえ明記されていなかった。 【参考文献】 ●『UFOと宇宙(NO.31)』【星からの無人ロボット船- その待機軌道をさがせ, 文:斎藤守弘】, 1978年 1953年9月14日から同17日までの3日間, イギリス諸島の多くのテレビ・スクリーンにアメリカのKLEE-TV放送局のテストパターンとコールサインが登場して, 視聴者たちを驚かせた。 彼らがチャンネルを合わせていた地元局の電波は, 強引なその信号に打ち消されたらしい。数分後(3,4分後)にその映像は消え, 地元局の放送が再び見えるようになったのである。 KLEE-TVはアメリカのテキサス州ヒューストンの放送局で, よほど特殊な状況がなければ, これほどの遠く(イギリス)でテレビ電波が受信されることはない。 それに, KLEE-TVは3年前に放送を止めて消滅していたのだ。 KLEE-TVの後継局からは, 1950年にその放送局が消滅後, いかなる種類のKLEE-TVの信号もテストパターンも放送していないことを知らせてきた。 この事件は, 国際的な注目と全世界的な関心を呼んだ。大衆の心の中で記憶が薄れかけてきた1959年になって, 一つの ”説明” が提出された。 提出したのはイギリスの調査者たちではなく, アメリカの <オズマ計画> のスタッフで, 1959年当時は宇宙からの奇妙な信号を受けとるべき, その電子装置をフル稼働させていた。 その ”説明” とは, 謎の発明家が仕組んだイタズラだったというものだった。だが, その発明家なる人物の身元は分からないし, イギリスの放送規則に対してこうした目に余る違反行為をしても, 告発もされなければ起訴もされなかった。 その上, 今日まで他のテレビ放送局ができないこと, すなわち, イギリス諸島全域を一局で電波妨害してのけたその方法も, ついに明らかにされることはなかったのだ。 【参考文献】 ●『空飛ぶ円盤の真実』【第6章/ 宇宙の彼方の生命】, 著者:フランク・エドワーズ, 訳者:安龍次郎, 1988年 ここで見落とされやすい重要な点は, イギリスではアメリカと異なるテレビ電波, 中継方法を採用しているということだ。 つまり, イギリスの2チャンネルはアメリカの2チャンネルとは違うし, アメリカのテレビ電波はイギリスのテレビには映らないのだ。 したがって, この中継放送を行った者は, 電波を変換する能力をもっていた。そればかりでなく, 両者の違いを知っていた, ということになる。 【参考文献】 ●『UFOと宇宙(NO.27)』【宇宙から来た人工衛星】, 文:ハリー・ヘルムス・ジュニア, 訳:矢沢潔, 1977年 Tweet 【参考外部】 ●Wikipedia (英語版:KPRC-TV) ●Wikipedia (オズマ計画) 【関連サイト検索キー: the mysterious klee tv test pattern 】 ●Snopes (The Mysterious Legend of KLEE-TV) ●texasescapes.com(「The Great Texas / British TV Hoax of 1953」 by Mike Cox ) ●historysdumpster.blogspot.com(The Legend Of KLEE-TV) ●dailykos.com(The mystery of the 'lost TV signal' that came back from outer space) ●wearethemutants.com(Ghost in a Box: The Haunting History of Television Broadcast Intrusions) |
●オーロラ・ミステリー |
オーロラ・ミステリーとは, 1897年4月の早朝, テキサス州の小さな町オーロラ(ダラス・フォートワースから50キロほど北西にあたるワイズ郡のなかにある)に住むブロクター判事の家の風車に,
1機の飛行船が衝突し墜落した。ひとりの乗員のばらばらになった遺骸が発見され, キリスト教の儀式にのっとって共同墓地に埋葬されたという。 墜落した飛行船は, プロクター判事の風車小屋の塔に激突し, 判事の庭をめちゃくちゃにしてしまった。 残骸は数エーカー(1エーカーは約4,000平方m)にわたって飛び散った。 このオーロラ・ミステリーは, 「墜落円盤」 ストーリーとして最初に話題になったものといえる。 ところで, 「謎の飛行船」 が全米を騒がせるようになったのは, その5か月ばかり前からのことである。 イリノイ, アイオワ, ウィスコンシン, インディアナの諸州の上空に出現した謎の飛行船は, 1897年4月14日になって, ついにテキサスに侵入してきた。 まず, デイトン, 数日のうちにウェザーフォード, コルシカーナ, フォートワースなどに出現した。 当時, 飛行船はヨーロッパでやっとお目見えしたばかり(飛行船のパイオニア参照)で, アメリカではまだ開発段階にあった。 ところが, 「謎の飛行船」 は, この時期, アメリカ各地を我がもの顔に飛び回った。 このオーロラ事件を報じたのは, テキサス州ワイズ郡オーロラ発として 『ダラス・モーニング・ニュース』 (4月19日号) 一紙だけであった。 すぐに, アメリカとキューバの紛争, ギリシアとトルコ間での戦争などが勃発したことや, その他多数の飛行船目撃報道などに埋もれ, このオーロラ事件は数週間もしないうちに完全に忘れ去られてしまった。 約70年経過した1966年になって, イギリスのUFO雑誌がオーロラの飛行船墜落事件の噂を聞いて, 取材記者をオーロラに派遣した。 それから, 7年後の1973年, オクラホマシティに本部のあるUFO研究団体が, 調査チームをオーロラに送り込んだ。 さらに, ドナルド・キーホー退役海兵隊少佐率いる研究団体, NICAP(全米空中現象調査員会)もこの調査に加わった。 キーホー少佐は当時, UFO宇宙船説の権威として知られていたため, あっという間に, オーロラはマスコミの話題の中心となり, この地に新聞記者やテレビの報道陣, UFO研究家, 野次馬がどっと押し寄せた。 そして, いくつかの事実が掘り起こされた。まず, 『ダラス・モーニング・ニュース』 に問題の新聞記事を執筆したS・E・ヘイドンは,F・E・ヘイドンという名前の人物で, 地元では有名な綿の仲買人だったことや, 地所の所有者だとされるプロクター判事についても, 軽犯罪を担当する無給の治安判事でしかなかったことなどが判明した。 こうしたことから, すべてはヘイドンによるジョークにすぎなかったのではないかという疑いが濃くなった。 1973年に行ったUFO研究団体の調査結果は, この仮説を支持しているように思われた。 また, この調査チームは, 記事の中で飛行船の墜落現場だとされている場所を簡単に見つけだすことができたが, その場所は人手に渡り, ニワトリ小屋が建てられていた。 また, プロクター判事の地所には風車小屋はなく, 飛行船は井戸の上に作られていた木造の井戸水の巻き上げ機に激突した, というのが正しいようだと判断した。 しかし, 調査チームを悩ませたのは, 古くからの住民たちが口を揃えて証言しているように, プロクター判事の庭だった場所には草木がまったく育たないという事実だった。 土壌を分析してみても養分に富んでいたのだ。 また, 金属探知機の調査からだと, まるで爆発で飛び散ったかのようなギザギザになった小さな金属片がいくつも見つかった。 しかも, この奇妙な金属片は墜落現場とされているところでしか見つからなかったのである。 調査チームは, オーロラの共同墓地にも同じような金属片が存在していそうだという反応を得たが, この墓地には125体の無縁墓がある上に, 飛行船の乗員を埋葬したというマーク入りの墓石はどこかに紛失してしまっていた。 1973年の調査では, 飛行船の墜落を目撃した証人を見つけ出すことはできなかったが, 事件当時15歳だった, マリー・エバンスは, 死亡した乗員は身長が120cmぐらいの緑色の小人だったと人々が話していたのを耳にしていたという。 また, マリー自身は墜落現場に連れていってもらえなかったが, 彼女の両親は出かけていって, 帰宅してから爆発した飛行船の残骸とバラバラになった乗員の死体について話してくれたという。 【参考文献】 ●『宇宙人の死体写真集2』1991年, 著:中村省三 このオーロラ事件を報じた 『ダラス・モーニング・ニュース』(4月19日(月曜日)号)は, テキサス大学アーリントン校(UTA)の図書館で, マイクロフィルムから見つけることができた。 このオーロラ事件の記事は, 「THE GREAT AERIAL WANDERER」 と題した5面目にあった。 しかし, この5面目には16編の飛行船に関する記事があり, オーロラ事件はそのなかの小さな記事の一つであった。また, 当時の新聞報道は娯楽記事の要素も大きかった。 1960年代にこの事件を調べた研究者は, 当時の生き残りの者から聞いた話では, オーロラ事件の記事の署名にあるS・E・ハイデンは, 綿の買い入れ業者であり, また記事のなかで合衆国通信サービス士官としてあるウィームスは町の鍛冶屋であった。 オーロラ事件は, 16編の娯楽記事に囲まれた, たった一つの小さな記事だけが根拠であることをマスコミが言及することはない。 【参考文献】 ●『謎解き超常現象W』2015年, 【オーロラ事件の真実, 文:加門正一】 ![]() (★オーロラ事件の載った 『ダラス・モーニング・ニュース』 の3日前の4月16日号に載った,テキサス州ウェザーフォードで目撃された飛行船) ■サイト:「sspc.jpn.org」から Tweet 【参考外部】 ●The Wunder kammer (Mystery Airships and the Aurora UFO incident of 1897) ●オカルト・クロニカル (オーロラ墜落事件テキサスに眠る何か) ●FC2・海外の妖しいBlog 記事から (テキサス州オーロラ: 19世紀の西部での UFO 墜落事件) ●怪奇動画ファイル (100年前のUFO墜落事件!オーロラ町にエイリアンの墓もあった!) ●ネタ袋 ([UFO] オーロラ墜落事件) 【関連サイト検索キー: AURORA TEXAS, 1897, airship mystery, UFO 】 ●En.Wikipedia(Aurora, Texas, UFO incident) ●nbcdfw.com(‘Not of This World,' Mystery of Reported Alien Crash Lives on in Aurora) ●keranews.org(Nearly 120 Years After Alleged UFO Crash, Small Texas Town Is All About Aliens) ●texasescapes.com(「The Aurora Incident」 by James L. Choron) ●wedentondoit.com(THE 1897 TEXAS AIRSHIP INVASION) ●chron.com(Aurora UFO crash remains a Texas alien mystery) ●texas hill country. com (The 1897 Aurora, Texas, UFO Crash & the 'Alien' Buried in the Cemetery) ●YouTube (Aurora Texas UFO Crash of 1897) ●intcat (INTCAT 1897 - 1899) |
Copyright (c) 2017-2023. Oomiya |