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怪奇・不可思議事件集2
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か き く け こ
か
●カイロの聖母出現(1968年)
1968年, エジプトのカイロで千人以上に目撃された聖母がいる。

光を発する女の人影が,
1968年4月2日の火曜日の朝, 午前1時から3時のあいだ, カイロのゼイトゥーン(Zeitoun)地区の聖母マリア教会の屋根の上に現われた。数千人の人々がこれを見に, いそいで集まった。
彼女は, 伝えられるところによると, それ以後, 数回戻ってきて, ベニ・スエフのアタナシウス司教を含む多くのコプト正教会の聖職者たちによって目撃された。
コプト教会は, 彼らがこの奇跡を承認したことを断言している公式の声明まで発表した。
【参考文献】(下記より引用)
『UFO超地球人説』【第13章/ ワニにかまれた傷を確実に治す法;第三の目の国】, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平, 1976年


 

カイロの聖母出現
(★聖母教会の屋根に出現した聖母の姿。撮影:1968年4月2日)
■サイト:「Wikipedia(カイロの聖母)」 から

【参考外部】
Wikipedia(カイロの聖母)
エジプトの聖母出現/ムーペディア|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム (web-mu.jp)
聖家族逃避行 序章 18 ゼイトゥーン、聖母マリアの出現 ナイルストーリー Nile Story (cocolog-nifty.com)
カイロの聖母・真相を考察 | Theつぶろ (thetuburo.com)
En.Wikipedia(Our Lady of Zeitoun)
YouTube(Our Lady Of Zeitoun - The Virgin Mary Apparition in Egypt)
●核ミサイルにシグナルを送るUFO
1966年か1967年のことで, ノースダコタ州マイオノット空軍基地(Minot Air Force Base)のミニットマン・ミサイルの発射シーケンス(手順)が, UFOの信号が原因で勝手に開始された。

新型ミサイルのミニットマンT型とU型の発射施設(LF)は, 地下コンクリートと鋼鉄のサイロによって防禦されている。各サイロは, 数マイルの距離で隔てられ, ソビエトからの核攻撃の生き残りに備えている。
ミサイル基地は, 10個以上の小隊(Flights)で組織され, 各小隊にはアルファベット順に呼び名が付けられている(例えば, アルファ, ブラボー, チャーリー, デルタ等々)。各小隊の地下にある発射管制カプセル(LCC- Launch Control Capsule)は地中ケーブルで連結され, 地下に配置された各小隊の10基のミサイルは,
24時間の警戒態勢下にある2名一組の発射担当士官に掌握される。
いったん戦争状態になり命令を受けると, 士官たちは2個のキーを回して, 彼らの10基のICBMを発射させる手順である。

この事件の情報源は, 元ミニットマン・ミサイル発射士官デビッド・H・シューア(David H. Schuur)で,
2007年8月ロバート・ヘイスティングス(Robert Hastings)のインタビューに答えた。

シューアは当時, マイノット空軍基地(Minot Air Force Base)の第455・第91戦略ミサイル航空団のミニットマン・ミサイル担当官で中尉だった。事件が起きたのは
1966年か1967年の深夜で, シューアはエコー小隊の地下LCC(発射管制カプセル)の中で警戒態勢にあり, コンソールの前にいた。
マイノット基地のミサイル発射場は, "C" のような形になっていて, その時は, ブラボー小隊, チャーリー小隊, デルタ小隊・・・オスカー小隊の順に, 物体の目撃を報告していた。
マイノット空軍基地のミニットマン・ミサイルサイトの配置図
(★マイノット空軍基地のミニットマン・ミサイルサイトの配置を示す。全体は "C" のような形を示す)

シューアの東側にあるアルファ小隊LCC(地下発射管制カプセル)の保安要員が, PAS(一次警報システム)を通じて, ミサイルサイト上にまぶしく輝く巨大な物体が滞空しているのが見える, と報告してきた。その物体は, ミサイルからミサイルへと移動していた。
アルファ小隊のミサイル要員は, ミサイル管制コンソールにスプリアス(設計上, 意図されているものとは別の周波数成分。不要波とも呼ばれる)が表示されているとの報告をしていた。数分後,シューアのいるエコー小隊のLCC(地下発射管制カプセル)でも, 担当するミサイルのいくつかにスプリアス表示が出た。
これらは, PAS(一次警報システム;SAC司令部と航空団指揮所を結ぶ回線。各発射管制カプセルにはスピーカーがあって, 指揮所からの指示などを聞く)を通じて目撃報告を聞くことができた。
シューアのエコー小隊も, アルファ小隊からの連絡を聞いて
数分後, 巨大で明るい物体が地上発射管制施設(LCF)の東上空にあると, 地上の保安班から連絡を受けた。物体が上空を通過した時, コンソール上に多数のスプリアス表示が出始めた。
物体は, 核ミサイルにある種のシグナルを送っているようだったという。
だがそれは, アルファ小隊とエコー小隊だけではなかった。その後
1時間ぐらいの間に, 全ての小隊の保安警戒班が, 彼らの施設上空にUFOの目撃を報告した。
物体は航空団の配置に沿って, 南東から北西へと小隊エリアの上空を通過する経路で飛行していたことがPASの連絡で聞くことができた。
物体は, 各ミサイルサイトを移動しながら, 次々と同様の事をしていたようで, 物体が去ると
数秒後にスプリアス表示は消え通常に戻り, 次のミサイルにスプリアス表示が出, さらに次のミサイルというように次々と同じ事が起きた。まるで物体が, 核ミサイルを一つづつスキャニングしているかのようだったという。
そして, 内部セキュリティと外部セキュリティ警報が発せられ, "発射進行中" が表示された。それは, ミサイルが発射指示信号を受けたということで, 発射シーケンス(手順)が開始されたことになる。このまま2つの停止コマンドがこない場合は, ミサイルは一定時間待機状態になった後, 自動的に発射される。
シューアたちは, ともかく "停止" スイッチを入れなければならなかった。
数分後, UFOは北西に移動し, 全ての機能は正常に戻ったという。
【参考文献】
『UFOと核兵器』【第9章/ 核ミサイル発射手順進行中!】, 2011年, 著:ロバート・ヘイスティングス, 監訳:天宮清


 

【参考外部】
Wikipedia(ミニットマン (ミサイル))
宇宙news letter(UFOと"神の火")
En.Wikipedia(LGM-30 Minuteman)
En.Wikipedia(Minot Air Force Base)

【関連サイト検索キー: Minot AFB, David H.Schuur, ufo incident
UFOs & Nukes(USAF Captain David H.Schuur)
NICAP(Recent Russian Newspaper Article Discusses UFO Incidents at Soviet and American Nuclear Weapons Sites)
YouTube(Minot Air Force Base UFO)
UFOs & Nukes(UFO Hovered Near Missile Launch Control Center at Minot AFB)
●火星上での大爆発
1949年12月9日, 日本の著名なアマチュア天文家の佐伯恒夫氏は, 望遠鏡を通して火星上に異常に強力な爆発が起こったのを目撃した。

佐伯恒夫氏
1933年から火星を研究してきた専門家だが, この不思議な爆発の後, 数分にわたって ”明るい光” が見られた。 それから ”光った黄灰色の雲” が現われ, その ”雲” の大きさは, 直径1,120キロメートル, 高さ64.36キロメートルと推定された。
この爆発は疑いもなく人工的核爆発であり, 水爆よりももっと強力なもので, 高度に進んだ文明をもつ生物が爆発させたとしか考えられないと佐伯氏は述べている。
*
大阪天文台の観測では,
1937年から1954年までのあいだに, 4回にわたって火星表面に ”明るい光” が輝くのを目撃している。
これらが火山爆発の可能性であることは否定できる。なぜなら, この光は火山活動には見られない, もっと強く明るい光だったからである。最初と2回目の爆発では, 光がそれぞれ
300秒間にわたって目撃され, 3,4回目の爆発では, 5秒間にわたった。
*
アレクサンドル・カザンツェフ(Alexander Kazantsev)は, その論文 『宇宙からの訪問者』 で,
1956年の地球と火星の大接近の後, プルコボ天文台長のA・A・ミハイロフは, プルコボ天文台が, 火星上に巨大な力の爆発が起こったのを観測したことを報告したと述べている。
【参考文献】(下記より抜粋引用)
『謎の白鳥座61番星』,1975年,著:ロビン・コリンズ,訳:青木榮一


 

【参考外部】
astroarts.co.jp(アマチュア天文家 故・佐伯恒夫さんの名が火星の地名に)
webcatplus.nii.ac.jp(佐伯 恒夫(1916-1996))
kwasan.kyoto-u.ac.jp(佐伯恒夫氏Tsuneo SAHEKI in 1954 & 福井実信氏Sanenobu FUKUI in 1958;エドムのピカリ現象)
prc.nao.ac.jp(アーカイブ室新聞;佐伯恒夫氏の木星スケッチ)
InDeep(木星で起きた「周辺数千キロに影響が及ぶほど」の謎の大爆発。これが小惑星など天体の衝突だった場合、太陽系の「状態の変化」の幕開けになっている可能性もあるのかも)
●火星の住人に取り憑かれた女性霊媒
1900年, 女性霊媒のエレーヌ・スミスは, 火星の住人に取り憑かれ, 幻視として見た火星の光景を詳細に描いた。

19世紀末
に女性 霊媒者 としてスイスのジュネーブで名を馳せた エレーヌ・スミス(Hélène Smith) は, 夢遊病のような トランス状態 になると, 火星の文明など遠い場所の鮮明なイメージや, 自分自身の前世の体験を語ることができた。
1900年に発刊された 『超火星の風景』 では, 火星の住人に取り憑かれ, 幻視として見た火星の光景を詳細に描いた。また, 火星の文字も描いている。
このときの絵は,
アウトサイダー・アートとして評価を受けている。
【参考文献】
『実話ナックルズ GOLDミステリー(Vol.6)』【火星の住人に取り憑かれた女性霊媒師エレーヌ・スミス】

 

エレーヌ・スミスの描いたアウトサイダー・アート
■サイト:「note.com」から

エレーヌ・スミスの描いたアウトサイダー・アート
■サイト:「alchetron.com」から

【参考外部】
psi-encyclopedia.spr.ac.uk(Hélène Smith)
Wikipedia(アウトサイダー・アート
●ガラバンダルの聖母出現(1961年)
1961年から1965年にかけて, スペインのガラバンダルに聖母マリアが現われた。訪問は千回にもわたった。

ガラバンダル(Garabandal)はスペイン北部のカンタブリアン山脈の中心部にある小さな村で, 海抜は約2000フィート(約610m)で, フランスのルルドから約150マイル(約240km)の距離にある。
1961年6月18日の日曜日, 4人の女の子がガラバンダルの村はずれで, おはじき遊びをしていると, 突然,一人の "天使" を目撃した。
女の子たちは, その天使は9歳ぐらいに見え, 長い, シームレスの青い服を着て, 黒い目をした小さい顔と, "細い手と短い爪" を持っていたと語った。その人物は, とても強そうな印象を与えた。彼はまぶしい輝きに包まれていて, 一言も発せずに, すーっと空中に跡形もなく消えた。
マリー・クルス・ゴンザレス(11歳), コンチタ・ゴンサレス(12歳), ハシンタ・ゴンサレス, マリー・ロリー・マソンの4人の女の子(ゴンサレスが3人いるが姉妹ではない)は, 興奮して村に走った。そして, みんなに天使を見たと話した。ほとんどのおとなたちは鼻であしらったが, 信心深い人たちはすっかり本気にして, うわさを広げた。天使がガラバンダルを訪れた, と。
その
2日後, 同じ4人のこどもたちが町はずれの道を歩いていたとき, 突然, 一つのまぶしい白い光が彼女たちの正面で爆発して, こどもたちをぞっとさせ, 短時間彼女たちの目をくらませた。
こうした体験のあとまもなく, 少女たちは トランス状態(狂信者たちはエクスタシーの状態と呼ぶ)にはいるようになり, その聖母を見たようだ。ときには, このトランス状態が
何時間もつづき, 少女たちはずっと, 自分たちの周りに集まっている何百人もの人たちを完全に忘れて, 顔をそらせ, 目はその幻影を見つめたまま, ぎごちなくひざまずいた姿勢をくずさないのだった。
最初のころの, こどもたちが聖母と一緒のときのケースの一つは, ここで特に興味のあるものだった。
1961年7月2日, 日曜日, 午後6時少し前, こどもたちは, ガラバンダルのはずれの, いまでは彼女たちの聖地となったところに集まり, すぐにトランス状態にはいった。彼女たちはのちに, 自分たちが見たことを詳しく話すことができた。聖母は, このとき, 二人の天使を一緒に連れてきた。天使たちは 「まるで双子のように」 同じ服を着ていた。聖母は, 長く, 細い手, 長く, やせた顔, "りっぱな鼻", "とても薄い" 唇をしていた。背は "やや高い" ようだった。髪は濃いクリ色で, 真ん中で分けられていた。これは, いうまでもなく, 多くの接触者たちによって述べられた "長い指" のUFO乗員たちの, ほとんど古典的な記述である。さらにおどろいたことに, 聖母の右側には, 少女たちの言によると, 「四角の赤い火が, 一つの目とある書き文字とで三角を形づくっている」 のが見えた。「その文字はむかしの東洋の字だった!!」
ガラバンダルのコンチタほかのこどもたちはもう, 1000回以上の目撃を経験していて, エクスタシーのあいだひんぱんに写真を撮られていた。何度も, 4人のこども全部が, 4人の別々の家で同時に目をさまし, まるで目に見えない力で呼び寄せられるように, 夜中に, 例の聖地に走って行った。彼女たちは, 医師, 最高政府, 教会高官, 疑似心理学者, 精神科医, その他, UFO学者以外のすべての人たちに調べられた。
ヴァチカンは, ガラバンダルのケースを処理するにあたって, じつに慎重だった。こどもたちは, いつか近い将来にそこで大奇跡が起こることを約束した。この奇跡は, 聖地の近くのマツ林の上で起こることになっていて, 空に永久的なしるしを残すだろうというものであった。
その間にも, 世界中で別の奇跡が起こっていた。そのほとんどは, ヴァチカンに無視された。
1968年3月の末近くに, 2,3日おいて二つ起こった。一つはフィリピンで, もう一つは世界の反対側のエジプトのカイロで起こった。
【参考文献】(下記より抜粋引用)
『UFO超地球人説』【第13章/ ワニにかまれた傷を確実に治す法;その他の奇跡, その他の相互関係】, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平, 1976年


 

ガラバンダルの聖母
(★体験をした4人の少女)
■サイト:「ガラバンダルの聖母(garabandal.jp)」 から

【参考外部】
Wikipedia(ガラバンダルの聖母)
ガラバンダルの聖母 - ガラバンダルの聖母 (garabandal.jp)
警告と奇跡 - ガラバンダルの聖母 (garabandal.jp)
En.Wikipedia(Garabandal apparitions)
Es.Wikipedia(Apariciones marianas de Garabandal)
Apparitions of the Virgin Mary in Garabandal, Spain - YouTube
The Famous Apparitions in Garabandal - Inside The Vatican Pilgrimages
き
●機能を復帰させた人工衛星
1960年代, アメリカの打ち上げた人工衛星のいくつかが, 突然機能を停止したが,その後,奇妙にも機能が復帰した。

この奇妙な問題に対する, 最初の公式的承認は,
1963年8月下旬に, 断片的な形で外部に漏れた。
何が起きたのかを率直に包み隠さず描写した発表ではなかったために, 新聞記者は, 根気強く調査して記事を書き上げねばならなかった。
以下は, その報告によるものである。
●測地用球状衛星アンナの場合
アンナは,
1962年10月に軌道に乗った。この衛星は, 地球の正確な大きさと形をさらに精密に算出できるよう, 星々を背景にして撮影するための4個の明るい明滅灯(フラッシングライト)を備えていた。”ホタル” 衛星の名でも知られるこの衛星は, 2カ月間追跡され撮影され続けたが, 全く思いがけないことに, 突然機能を停止した。
壊れて使いものにならなくなったと信じた空軍は, この衛星の関連作業を放棄し, 技術者たちは別の任務に赴いた。
ところが,
1963年8月, 7カ月にわたる中断の後, アンナは突然活動を再開したのである。空軍の技術者たちは, 同衛星の仕事を再開することになった。
●テルスター2号の場合
テルスター2号は,
1963年5月7日, 打ち上げられた。当社は完全に機能していたが, 1963年7月16日, 信号が突然途絶えた。以来, 8月12日まで活動を中止していたが, この日から再び息を吹き返したのである。
これらの衛星は, 突然機能を停止し, その後で不可解にも,送信を止めたのと同じぐらい唐突に, 任務に再度復帰したのである。
【参考文献】
『空飛ぶ円盤の真実』【第8章/宇宙への競争】1988年,著:フランク・エドワーズ,訳:安龍次郎


 

【参考外部】
コトバンク(測地衛星)
●近世ヨーロッパのイタリアにおけるUFO事件
近世(西洋史においては15世紀半ばから18世紀終わりまでをいう)ヨーロッパにおいても, UFO事件は発生している。

★イタリア・ジェノヴァにおけるUFO事件(1608年)
1608年8月, 地中海(ジェノヴァ共和国の港町(現イタリア・ジェノヴァ))の沖に異様な生物が現われ, 軍隊が招集された。

この年の8月初旬, 現イタリアの港町ジェノヴァ(Genoa)の沖に, 「人間の姿をしているが, 腕は鱗(うろこ)で覆われ, 手には腕に巻きつく恐ろしい空飛ぶ蛇(へび)を握った」 生き物が現われた。
それは, 1匹ではなく, 女のような顔をしたものもいれば, 竜のような頭を持つものもいた。彼らは, 凄まじい叫び声を上げながら, 海を出たり入ったりしていたという。
あまりの恐ろしさに, 軍隊が緊急招集され, 大砲を800発も放ったが, まったく効果はなかった。
同じ月の15日, 謎の生き物は, 今度は 「6匹の燃え上がる竜に似た姿のもの」 に牽(ひ)かれた3台の馬車を伴って, 再び現れた。彼らは前回と同じように, 散々わめき散らしたあげく, 最後は海の中へと消えていった。
事件の直後, この地方一帯から現フランスのプロヴァンスにいたるまで, 血の雨が降った・・・・・・。
これらの衝撃的な話は, 南仏ニース(Nice)の公文書館所蔵の歴史年代記に書かれている史実と報告されているのだ。
【参考文献】
『週刊 世界百不思議(No.1)』【UFOvs.地球軍。中世ジェノバで大戦争】2009年


ジェノヴァの沖合に, 三隻の不思議な船が忽然と現われた。目撃した人たちの話によると, 完全な円形の浮揚する馬車のようなもので, 「竜の歯に似た」 長い焔の線を背光のように背負っていた。
人々は, 大いに驚き怖れたらしく, ショックのため数名の死者まで出る始末であった。
翌8月16日, ジェノヴァの大聖堂では, 司教が厳かに 「テ・デウム」 を唱えて, 厄払いをしなければならなかった。
【参考文献】
『西洋歴史奇譚』【昔の空飛ぶ円盤,文:ルイ・ポオーウェル,訳:有田忠郎】1982年


 

地中海の沖に現われた異様な生物のイメージ画
■サイト:「thelivingmoon.com(Pegasus Research Consortium The UFO Files)から

【サイト検索キー: UFO Battle, Genoa, 1608
earth- chronicles. com (Alien invasion 1608)
Pegasus Research Consortium The UFO Files (France - UFOs in History August 1608)
ATS (UFO Battle South France, from Marseilles to Genoa, 1608)
Think About It - REAL (1600 - 1649 UFO & Alien Sightings)
Think About It - REAL (1608: Genoa, Italy's USO Battle)
The Project Avalon Forum (1608 UFO Battle?)
●近世ヨーロッパのスイスにおけるUFO事件
近世(西洋史においては15世紀半ばから18世紀終わりまでをいう)ヨーロッパにおいても, UFO事件は発生している。

★スイス・ジュネーブにおけるUFO事件(1578年)
1578年12月21日, スイス・ジュネーブ上空に大きな星のような謎の物体が現われた。

この日の真昼だった。ジュネーヴ(Geneva)上空に月ほどの大きさの 「星」 が一つ姿を現わし, 猛スピードで動いていった。それは, 後ろに 「多量の火」 の跡を曳いていた。
1579年, パリの書店ジャン・ピナール(Jean Pinart)から刊行された書物にのっている目撃者談によれば, この 「星」 は煙のような3本の大きな弧をあとに残し, ジュネーヴ郊外の畑がかなり焼き払われたということである。
【参考文献】
『西洋歴史奇譚』【昔の空飛ぶ円盤, 文:ルイ・ポオーウェル, 訳:有田忠郎】, 1982年


 

【参考外部】
Splatter (UFOs in History)
Think About It - REAL(1570 - 1599 UFO & Alien Sightings)
●近世ヨーロッパのドイツにおけるUFO事件
近世(西洋史においては15世紀半ばから18世紀終わりまでをいう)ヨーロッパにおいても, UFO事件は発生している。

★ドイツ・ニュルンベルクにおけるUFO事件(1561年)
1561年4月14日の明け方, ドイツ・ニュルンベルクの上空に, 多数の謎の物体が現れた。

この日の明け方, ニュルンベルク(Nuremberg)の上空に, 数え切れないほどの球形や円盤状, 巨大な鎌や槍のような形の物体が現われ, 激しく飛び交ったという。
1時間ほどして, 物体はどこかに落ちていくように消えていったらしく, UFO同士の戦いだったとも評されている。
16世紀の版画家ハンス・グラーザー(Hans Glaser)が, 当時の様子を木版画に残しているが, 画面の右下の丘の上からは噴煙が上がっており, 物体がここに墜落した可能性もある。
ただ, 物体の出現は, 何らかの光の反射によるもので, 巨大な槍とは明け方の流れ星を指すとも指摘されている。
一方で, こうした自然現象が同時に起きることは珍しいとの見方もある。
【参考文献】
『ヒトラーとUFO』【第2章/UFOを追え】2018年,著者:篠田航一


 

1561年のニュルンベルク上空の怪奇な天文現象
サイト:「Wikipedia(1561年のニュルンベルク上空の天文現象)」から

【参考外部】
UFO事件簿 (1561年ニュルンベルクのUFO現象!?)
Wikipedia (1561年のニュルンベルク上空の天文現象)
En. Wikipedia (1561 celestial phenomenon over Nuremberg)
YouTube (THE AMAZING UFO BATTLE OVER NUREMBERG GERMANY 1561 HD)
You Tube (14th April 1561:The Nuremberg Celestial Phenomenon)
ATS (UFO Battle South France, from Marseilles to Genoa, 1608)
montreal paranormal. com (Basel UFO Battle site, Basel, Switzerland)
THE LOCAL ('Fakes' and woodcuts- Germany's top UFOs)


★ドイツ・シュトラールズントにおけるUFO事件(1665年)
1665年4月8日, ドイツのバルト海沿いの港町シュトラールズント(Stralsund)で, 多くの漁師たちが謎の物体を目撃した。

この日の午後2時ごろ, 鳥の大群が北の方角から海にやって来たかと思うと, それは戦艦だった。
中空に浮かぶ戦艦に漁師たちは度肝を抜かれたが, この船団は
何時間も空中で闘っていたという。
男性がかぶる帽子のような巨大な円盤も飛来し, 聖ニコライ協会(Church of St. Nicolai)の真上に,
夕方まで浮かんでいた。
この円盤は明け方の月のようなオレンジ色だったという。漁師たちは震えが止まらず, 体調不良を訴える者も続出したらしい。
【参考文献】
『ヒトラーとUFO』【第2章/ UFOを追え】2018年, 著者:篠田航一

 

港町シュトラールズントに現われた異様な物体のイメージ画
■サイト:「Jason Colavito」から

【参考外部】

Ancient Origins (In 1665,Many Said They Saw a UFO Battle and Fell Sick Afterward)
THE EPOCH TIMES (In 1665, Many Said They Saw a UFO Battle and Fell Sick)
Jason Colavito (Did UFOs Buzz Stralsund on April 8, 1665?)
●近世ヨーロッパのフランスにおけるUFO事件
近世(西洋史においては15世紀半ばから18世紀終わりまでをいう)ヨーロッパにおいても, UFO事件は発生している。

★フランス・エソースにおけるUFO事件(1579年)
1579年1月23日, セーヌ河沿いのエソースという町の上空に, 円形の巨大な竜が現われた。

この日の夕方の6時か7時頃, セーヌ河(Seine River)沿いのエソーヌ(Essone)という町の上空に, 円形の巨大な竜が現われて, 盛んに火を吐いた。それは, 河伝いに走り, まるで稲妻を投げているように見えた。
そして, 河水がにわかに溢れたので, 食糧運搬の舟が何艘も沈没した。むろん, 嵐も地震もなかったのである。
そのあと, 竜は急旋回して姿を消し, 見えなくなった・・・・・。』
これは, ジャン・ピナール(Jean Pinart)出版の 『異象と奇蹟をめぐる驚異譚』 によるものである。

【参考文献】
『西洋歴史奇譚』【昔の空飛ぶ円盤, 文:ルイ・ポオーウェル, 訳:有田忠郎】1982年


 

【参考外部】
Splatter (UFOs in History)

★フランス・アンジェにおけるUFO事件(1609年)
1609年1月, フランス・アンジェの町の上空で, たくさんの光の矢が空を走り, 町中の人を驚かせた。

アンジェ(Angers)の町の上空で, 「燃えさかる薊(あざみ)のような」 たくさんの光の矢が空を走り, 町中の人々が道に飛び出してそれを見上げた。
物体は, 青と赤の巨大な輝きに包まれていたという。
数分間, ゆっくりと動いたあと, 光はサン・モーリス(Saint Maurice)教会とサン・ピエール(Saint Pierre)教会の上空に集まった。
住民たちは驚き怖れ, これらの物体に町が急襲されても教会なら安全だろうと考えて, 教会内に殺到した。

【参考文献】
『西洋歴史奇譚』【昔の空飛ぶ円盤, 文:ルイ・ポオーウェル, 訳:有田忠郎】1982年


 

【参考外部】
reddit. com (UFOs of Antiquity - The Wave of France 1600s & UFOs in Coins (Art))
Splatter (UFOs in History)

★フランス・リヨンにおけるUFO事件(1621年)
1621年10月12日, フランス・リヨンの町の住人たちは, 上空に奇妙な物体を目撃した。

この日の夜の8時頃, 下弦の月がかかっている空の東の方が明るくなりはじめた。およそ1時間半ほど, まるでよく晴れた夏の朝のように空が澄み渡った。リヨン(Lyon)の町の住民たちは大いに驚き, 空を見上げていると, 空中に何か妙な物体が現われたことに気がついた。それは, どう見ても鳥や何かではなかった。
ベルクール(Bellecour)広場の真上に, 巨大な山のようなものが姿を見せた。その上部には, 円形の城館の形をしたものがあり, そこから閃光がぱっぱっと空中に放たれた。この物体は, ポートデュローヌ(Port du Rhone)地区全体とサン・ミシェル(Saint-Michel)とソーヌ河(Saone River)の区域全体を覆っているように見えた。
また
同じ日, テロー(Terreaux)広場の方では, 400人以上の人々が, 煌々と輝くまるい星が閃光に包まれながら走って行くのを目撃した。
同じ頃, ニーム(Nimes)の町でも, とりわけ翌13日の夜10時頃だったが, 古代円形劇場の遺跡の真上に, 光り輝く太陽のような物体が現われた。それは, 光の焔に囲まれながら, マーニュ(Magne)塔と呼ばれるローマ時代の塔のほうへ, まっすぐ動いて行くかに見えた。町の住民は, みな仰天した。
モンペリエ(Montpellier)の町では,
夜の10時から午前3時にかけて, 盛んに輝く星のようなものが家々の上を移動し, 火の矢を放った。人々はみな外に飛び出し, 口をあんぐりあけて見上げた。
【参考文献】
『西洋歴史奇譚』【昔の空飛ぶ円盤, 文:ルイ・ポオーウェル, 訳:有田忠郎】1982年


 

【参考外部】
Splatter (UFOs in History)
reddit. com (UFOs of Antiquity - The Wave of France 1600s & UFOs in Coins (Art))
Think About It - REAL (1600 - 1649 UFO & Alien Sightings)

★フランス・アレンコンにおけるUFO事件(1790年)
イタリアのUFO学者アルベルト・フェンゴリオ(Antonio Fenoglio)によると, 1790年6月12日の午前5時に, フランスのアレンコン(Alencon)付近で起こったとされている ”不時着事件” を明らかにした。

パリからリアブーフ(Liabeuf)なる刑事が調査のため派遣され, その彼の最終調査報告書が保管されていたのである。
目撃者のフランスの農民たちは,
その朝, 巨大な球が上空に現われて, 振動しながら動き, 山の頂上に突っ込んで草木を根こそぎにしたと, リアブーフに語った。
その物体の熱で草が燃え出し, 農民たちは, ひろがらないうちに消しにいった。
夕方になっても, 球体はまだ熱かった。
球体は馬車1台がはいれるくらいの大きさだったが, 落ちてきたままの状態に置かれていた。 すでに妙な事件のうわさはあたりに広まり, 野次馬がつめかけていた。
すると突然, 球体のドアのようなものが開き, われわれとそっくりではあるが, からだにぴったりの奇妙な服を着た一人の人間が出てきて, そこに群衆がいるのを見ると, 何かわけのわからないことをつぶやいて, 林の中に駆け込んだという。
農民たちがこわくなって, その物体から遠ざかると, それはまもなく, 音もなく爆発し, 細かい粉末のようなもの以外は, 何も残さなかった
林のなかに逃げ込んだ謎の男の捜索が行われたが, 空中に跡形もなく消えてしまったかのように見つからなかったという。

【参考文献】
『UFO超地球人説』1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平
『謎の白鳥座61番星』1975年, 著:ロビン・コリンズ, 訳:青木榮一


 

フランスのアレンソン付近で起こったとされている”不時着事件”イメージ画
■サイト:「COOLinterestingstuff.com」から


【関連サイト】
COOL interesting stuff. com (1790 UFO crash or time traveller?)
●近代スピリチュアリズムの誕生
近代スピリチュアリズムは, 1848年, アメリカのニューヨーク州ハイズビルの一労働者の家庭の不思議な事件から発生した。

近代スピリチュアリズム(Modern Spiritualism)の スピリチュアリズム は, 心霊術, 心霊主義, 神霊主義などと訳す。
この近代スピリチュアリズムは, ラップ音 を介して初めて霊との交信ができた
1848年3月31日を始まりとしている。場所はニューヨーク州ロチェスターの一寒村ハイズビル(ハイデスビル;Hydesville)にある家屋の中であった。

■事件詳細(サイト内)参照
=> 怪奇・不可思議事件集(ハイデスビルの不思議な音)

霊との交信を初めて行なったのは, この家に住んでいたフォックス家(家族はジョン・デビッド・フォックス, 妻および二人の娘の4人家族)の娘たち(マーガレットとケイト)であった。

■人物詳細(サイト内)参照
=>
人物紹介(フォックス3姉妹)


また, このハイズビルにあるフォックス家は, モルモン教を設立した ジョゼフ・スミス が以前住んでいた家から, 数マイルしか離れていないところにあった。

■詳細(サイト内)参照
=>
関連用語集(フォックス家)


*
やがて, このこと(霊との交信)が近隣に知れわたり, 多くの者が興味を示すところとなった。すると, ウィリアム・デュスラーという人が, 「事件が起きる
7年前にその家に住んでいたが, こういう騒音現象(ラップ音がする)は起きなかった」 と言ってでた。
やがて, 調査委員会が結成されると, 彼は委員長となり, この家の前住者たちについて調査を始めた。すると, ジョン・フォックスの前住者ウィークマンのその前の住人ベルの時代に, この騒音が始まったことが判明した。
デュスラーは, フォックス家の騒音を出す霊に対して, 質問をして情報を収集した。それは, 発した質問に応答(ラップ音)がない場合は否定(No)とみなす方法であった。
その結果, この霊は, チャールズ・B・ロスナという行商人で,
4〜5年前, 彼の金を奪う目的でジョン・C・ベル(ウィークマンの前住人)が彼を殺し, 10フィート下の地下室の真ん中に埋めてしまったということであった。そこで, その場所を探しあて掘ってみると, 石炭や木炭とともに少量の骨が発見された。
こうして, この霊魂の語るところが真実であることが報道されると, 多数の人々がこの家を見ようと次々に訪れ, そのためフォックス一家は, 止む無くこの家を引っ越していった。
しかし, ラップ現象は依然として, この姉妹から離れることはなかったのだ。その結果, 新しい第二の事実 -霊能- が発見されることになった。それは, マーガレットとケイトがいる所には, いつでもラップ音が発生することであった。すなわち, この二人には, 霊が音を発するに必要な一種の力を供給することができるということである。

【参考文献】
『近代スピリチュアリズム百年史』【第1章第5節/ 近代スピリチュアリズム運動の発端】, 著:アーネスト・トンプソン, 訳:桑原啓善, 2011年


 

●近代で最初のUFOコンタクティ− ウィリアム・デントン
1866年, 地質学者のウィリアム・デントンは, 宇宙人とコンタクトしたことを宣言した。

この年(1866年)
に, ウィリアム・デントン(William Denton) というニューイングランド人が, 自分は近代において最初の接触者(コンタクティ)だと宣言した。
彼は, ほかの惑星の生きものたちとテレパシーで接触したと主張し, 彼とその全家族は金星と火星を訪問したと報告した。
デントンは, 彼がアルミニウムでつくられていると考えた円盤型の乗物を詳述している一連の本を書いた。(
1886年までは, 商業ベースのアルミニウム製造法は発明されていなかった)
彼はまた, 聴衆に(彼は広く講演して回った), アルミニウムの飛行船を乗り回している民族は, われわれにひじょうによく似ていると語った。彼の話は, 多くの点で現代の接触者の話と一致している。
【参考文献】(下記より引用)
『UFO超地球人説』【第12章/ 壮大なぺてん師たち;UFOと夜中にぶつかるもの】, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平, 1976年


 

木星マップ(ウィリアム・デントン)
(★木星MAP)
■サイト:「The Saucer Life(Encounter 705: The Psychometric Express)」から

【参考外部】
Encounter 705: The Psychometric Express - The Saucer Life
The Soul of Things; Or, Psychometric Researches and Discoveries by William Denton | Goodreads
く
●空中に浮いた霊媒者ダニエル・ダングラス・ホーム
1868年, 傑出した霊媒者のダニエル・ダングラス・ホームが, 3人の目撃者がいる中で空中に浮いてみせた。

心霊術 史上, 最も傑出した 霊媒者 と云われた ダニエル・ダングラス・ホーム(Daniel Dunglas Home) が,
1868年12月13日の夕方に行なった空中浮揚は, 最も有名なものである。場所はロンドンにあるアデア卿の家の3階で, アデア卿を含めて3人の目撃者がいた。
トランス状態に陥ったホームは, 3人に向かって 「この場から離れてはならぬ」 と言って廊下に出ていった。隣の部屋に入り, 窓を開く音が聞こえてきた。そのすぐ後に, ホームは3人のいる部屋の窓の外の空中に立っていたという。3人が呆然(ぼうぜん)としている間に, ホームは3人のいる部屋の窓を開け, 部屋の中に入ってきた。そして, 「空中を動いている自分を警官が見たら, どう思うのだろう」 と言って笑った。
ホームは, アデア卿に隣の部屋に行って, 窓を閉めてくれるよう頼んだ。戻ってきたアデア卿は, 窓がわずか30センチメートルほどしか開いていなかったことに驚いた。
ホームは3人を連れて隣の部屋に入り, アデア卿に, 先ほどと同じような幅に窓を開けてもらった。そして3人に自分から少し離れるように言うと, 自分の体を宙に浮かせ, ほとんど水平にして, 頭の方から, 窓のすき間を抜けて外に出ていった。宙に浮いたホームの体は硬直していて, 内へ外へとゆらゆら揺れているように見えたという。それから, ホームは足の方を先にして部屋の中に戻ってきた。トランス状態からさめたホームは, 非常に興奮していて, 自分が何か危険なことをやったような気がしてならないと言い, 窓から身を投げ出してしまいたい気持ちに駆られたと言った。彼の興奮状態はかなり長いこと覚めやらなかったという。
3人の目撃者は, アデア卿(Lord Adare)とそのいとこのチャールズ・ウィン大尉(Captain Charles Wynne)とリンゼイのマスター(the Master of Lindsay)で, 非の打ちどころのないロンドンの上流社会の人たちであった。
【参考文献・サイト】(下記を参考にまとめました)
『心霊の世界』【第1章/ ハイデスビルの怪しい音】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年
「American Hauntings(THE HAUNTED MUSEUM: THE MAN WHO COULD FLY THE MYSTERY OF DANIEL DUNGLAS HOME)」


 

空中に浮揚するダニエル・ダングラス・ホームのイメージ画
■サイト:「encyclopedia2. thefreedictionary. com」から

【参考外部】
encyclopedia2. thefreedictionary. com(Home, Daniel Dunglas)
●雲に消えたイギリス兵
1915年 , イギリス軍の一個連隊数百人が, 奇妙な青白い雲のかかった場所を過ぎようとしたが, その雲を抜けて出てきた隊員は一人もいなかった。

雲の中に消えたノーフォーク連隊
(★雲の中に消えたノーフォーク連隊)
■サイト;『enigma-calender.blogspot.com』から

トルコでダーダネルス作戦(
ガリポリの戦い )が行われていた最中に, この不思議な事件は起こった。 信じられぬ出来事だが, 何人かの目撃者により確認されている。
場所はガリポリ半島沿いのサブラ湾南側を内陸にはいったカイアジク・アガーラの近くであった。
イギリス軍の一個連隊数百人が, 奇妙な青白い ”雲” がかかった場所を過ぎようとした。 その奇妙な ”雲” は, 目撃者によればカイアジク・デレ(地面の陥没地)の上をすっぽり覆っているように見えた。 そして, その ”雲” を抜けて出てきた隊員は一人もいなかったという。
”雲” は,
1時間ほど たって地面を離れた。 約1.2キロ上空に同じような ”雲” が6個から8個くらいが浮かんでいた。 地面から上昇した”雲” が上空の ”雲” に合流するのを待って, その奇妙な雲の一団は, 東欧のブルガリアの方向に移動していったという。
”雲” は, どれも細長い恰好だった。地上に降りていた雲は, 長さ約241メートル, 高さと幅がそれぞれ約60メートルで, 外見は ”きめがこまかく”, ”固い” 感じがした。
この事件の目撃者は, オーストラリア・ニュージーランド連合部隊の工兵であったF・レイチャートとR・ニューンズ, J・L・ニューマンの3人である。
レイチャートの話では,
1918年 にトルコが降伏したとき, イギリスは行方不明の一個連隊の隊員の釈放を要求したが, 「トルコは, この連隊を捕虜にしたことはもちろん, 接触した事実もないので, 連隊が存在したことも知らなかった, と回答した」 という。
【参考文献】
『謎の白鳥座61番星』【巨大なUFO/ 青白い雲の怪】, 1975年, 著:ロビン・コリンズ, 訳:青木榮一


ガリポリでの最も血なまぐさい戦闘は, スブラ湾近くの第60丘陵と呼ばれる地点で行われた。
1915年8月28日の朝, イギリスのノーフォーク連隊第1大隊が, 第60丘陵攻撃の準備をした。暖かく晴れた日だったが, 数名の人は, その丘の上に一群の奇妙な雲が低くかかっているのに気づいた。そよ風はあったが, その雲は止まったままであった。
目撃者の述べたところによると, 大隊は行進して丘を登り, やがて全部隊が 「パンの形をした雲」 の一つに隠れた。やがて, 雲が動いたが, 後には部隊のかけらもなかった。
連隊の失踪は, 連合軍遠征隊総司令官によりイギリス政府に報告された。その報告には, 不思議な雲のことは述べられておらず, 連隊が全軍の主力から離れて行方不明になったとだけあった。一つの大隊がそっくり "行方不明" の区分に入れられた。全員が戦死したか捕虜になったと考えられたのある。
1918年に戦争が終わると, イギリス軍はトルコ軍に, この大隊のことを尋ねた。しかし, トルコ軍は何も知らないとの回答をした。彼らの部隊は, ノーフォーク連隊第1大隊とは, 何ら接触していなかったのだ。
1920年にガリポリで, この連隊に属する兵の遺体がいくつか発見された。そして結局, この大隊の兵たちは戦闘で死んだのであり, 他の者はトルコの捕虜収容所で死亡したのだろうと考えられた。今日では, ノーフォーク第1大隊の兵は, 血なまぐさい作戦で, あまりにも多くの兵が跡形もなく消えて犠牲になったとの説明が, 一般には認められている。
しかし, この説明を決して認めようとしない人々もいた。特に, 第60丘陵上空の奇妙な雲を覚えている目撃者たちが, そうであった。フランスの ジャック・バレー( Jacques Fabrice Vallee) は, 興味をもってこの事件を調べ, 『マゴニアへの招待(Passport to Magonia)』 という自著の中に, その話を収めた。 全連隊が, 雲の中へ消えたことを証言する目撃者3人の署名した手紙が, そこに用いられている。

【参考文献】(下記より抜粋)
『神秘と怪奇』【第2章/ 不思議な失踪】, 著:コリン・ウィルソン, 訳:安田洋平, 1977年


 

【参考外部】
世界史の窓(ガリポリの戦い)
Unbroken Snow(ノーフォーク連隊集団失踪事件(1915))
enigma-calender.blogspot.com(第1次世界大戦中に起きた「ノーフォーク連隊集団失踪事件」の真相が判明!?〜奇妙な”灰色の雲”の中に消えた彼らの消息とは?)
都市伝説をまとめてイッキ読み(ノーフォーク連隊失踪事件!341人が雲の中に消えた最大の神隠し事件!)
Wikipedia(マゴニア)
aa.cyberhome.ne.jp(『マゴニアへのパスポート拝見』馬場秀和)
●グレース・ロッシャーの自動書記
1957年, イギリスのロンドンに住むグレース・ロッシャーは, 叔母に手紙を書いたあと, 手の上でペンを休ませていると, そのペンがひとりでに動き出し文章を綴り始めた。それは, 亡くなった婚約者からのメッセージであった。

グレース・ロッシャー(Grace Rosher)が 自動書記 を行えることを偶然発見したのは, 次のような経緯があったからである。
彼女の婚約者である, ゴードン・E・バーディック(Gordon E. Burdick)はカナダ海軍に勤務し, バンクーバーに駐留していた。
1956年6月にバーディックは, ロッシャーと結婚するためにロンドンに向かうつもりでいた。 しかし, 出航の1週間前に, 彼は亡くなってしまう。
15か月後, ロッシャーは, 叔母に手紙を書き終え, お茶の時間までに, 別の手紙を書くことができるのではと考え, ペンを手に軽く置いた。 突然, ペンが自然に動き始めた・・・! ペンは, 彼女の意識的な意志なしに動き始めた。そして驚いたことに, 彼女は, 死んだ婚約者の手書きの手紙を書いていることに気づいたという。
*
1961年にロッシャーは, 彼女の経験について 『Beyond the Horizon』 という魅力的な本を出版した。 これには, 自動書記によるゴードン・バーディックからのメッセージが含まれている。ゴードンは, スピリット・ワールド(Spirit World)での彼の人生が, どのようなものかを詳細に説明している。
1968年には, 2冊目の本 『The Travellers' Return』 が出版された。
【参考サイト】
「gotsc.org(Automatic Writing The Mediumship of Grace Rosher)」
「psychictruth.info(Medium Grace Rosher)」


 

自動筆記するグレース・ロッシャー
(★ペンを軽く手に寝かせるだけで自動筆記したグレース・ロッシャー)
■サイト:「gotsc.org」から

自動筆記時のグレース・ロッシャー
(★筆記時のグレース・ロッシャー。交信してくる霊たちは, 各自が独特の筆跡でつづっていく)
■サイト:「gotsc.org」から)

心霊通信を, 生前の筆跡と比較しているところ
(★グレース・ロッシャーが, ウィリアム・クルックス(William Crookes)卿 から受けたと主張する心霊通信を, 生前の筆跡と比較しているところ)
『心霊の世界』 から

【参考外部】
gotsc.org(Automatic Writing The Mediumship of Grace Rosher)
psychictruth.info(Medium Grace Rosher)
encyclopedia.com(Rosher, Grace (d. 1980))
newworldencyclopedia.org(Automatic writing)
british-miniatures20c.blogspot.com(Rosher, Grace - portrait of Edward VIII )
け
●ケイティー・キング(支配霊)の不可思議
1870年代の話である。ケイティー・キングは女性霊媒者フローレンス・クックのスピリット・ガイド(支配霊)である。ケイティー・キングは, 霊姿となって全身像を現わした。

フローレンス・クック(Florence Cook) は, 霊媒 として異常なまでの才能を持つ少女であった。
クックはガス燈のもとで, 霊の全身像を呼び出すことができた。その霊は, ケイティー・キング(Katie King) と名乗り, クックの スピリット・ガイド(Spirit guide - 支配霊) であった。しかし, 現出した霊姿(れいし)のケイティー・キングは, 霊媒の
フローレンス・クックと, 外見が, あまりにも似すぎていた。
そのため 心霊術 に懐疑的な人々は, 二人が別人だという証拠を見ない限り, この件は, 信じられないというわけである。
ウィリアム・クルックス(William Crookes)卿 は, 二人が似ているという点を認めたうえで, だが別人であるという証拠を, 心霊術者仲間の新聞で公にした。 彼がそこで述べていることは, 降霊 の間じゅう, 自分は霊姿となったケイティー・キングを見たし, その時, クックが座っているはずのカーテンの奥のキャビネット内で, クックのすすり泣き, うめく声をはっきりと聞いたということである。
しかし, これで懐疑派が満足するはずはなかった。するとクルックス卿は間もなく, 二人が別人である "絶対的証拠" なるものを発表したのである。 『スピリチュアリスト(The Spiritualist)』誌に送った
1874年3月30日付の手紙に, 彼は次のように書いた。
3月12日, ここ(ロンドン西北にある彼の自宅)での降霊会で, ケイティーが私たちの前を歩き回り, しばらく話を交わした後, カーテンの奥に消えていった。カーテンは, 我々のいる実験室と, キャビネット代わりに使った図書室とをへだてていた。 そのカーテンの所に姿を現わして, ケイティーは私に 『こちらに来て, 私の霊媒者の頭を持ち上げてやってください。ずり落ちていますから』 と言った。 そう言うケイティーは, いつもの白い長い衣服をまとい, 髪をターバン型に結って立っていた。私は急いで図書室へと向かった。そのときケイティーは, すっと身を避けて私を通らせてくれた。確かにクック嬢の体は, ソファーからずり落ちていて, 頭といえば, 全く変な格好でぶら下がっていた。 私はクックを抱き起こしてやりながら, 闇の中ではあったが, 満足すべき証拠がこれで確かめられた, と思った。クック嬢は, ケイティーの衣装ではなく, 黒いビロードの服をまとっていて, 恍惚(トランス)状態にあったからである。 私がケイティーの姿を認め, それからクックを抱き起こしてやるまで, 3秒以上はたっていなかったろう。」
*
しかし, クルックス卿は同時に二人の姿を見たわけではない。そして, その機会は
3月29日に訪れた。その夜, 彼が実験室のガス燈を消したとき, ケイティーが現われクルックス卿を図書室に呼んだのである。彼は, リンのランプを手に持って, その鈍い光りの中で十分に見たのだった。
「私は暗い図書室へと注意深く入って行った。そして手さぐりでクックを捜した。彼女は床にうずくまっていた。私はひざまずき, リンのランプに空気を入れ, 光りをかざした。 すると, 若い娘がその夜着ていたとおりの黒いビロードの服をまとって, どう見ても放心状態でいるのだった。私は彼女の手を取り, 光りを当てたが彼女は動かず, ただ, おだやかに息をするだけだった。私はランプをかかげて, 辺りを見回した。 そして, クックの向こう側に立っているケイティーの姿を見たのである。彼女は, これまでの交霊の場で着ていたように, ひだの波打つ白いローブを着ていた。私はクックの片手を握り, ひざまずいたままでランプを上げ下げし, ケイティーの全身を照らして確かめた。 そして, ケイティーの姿を目(ま)のあたりに見ていたのである。頭が混乱して幻覚を見たのではない, と私は何度も自分を確かめた。彼女はしゃべりはしなかったが, 頭を動かし, ほほ笑んだ。私は三度もケイティーにランプを向け, その姿に疑問がなくなるまで観察した。 やがてクック嬢が, わずかに体を動かし始めた。するとケイティーが, 去るようにと私に合図した。私はキャビネットの中の別の場所に移り, ケイティーから目をそらした。しかし, クックが現実に返るまではキャビネットの中にいたし, 客の二人が明かりを持って入ってくるまで, そこから出はしなかった。」
クルックス卿は同じ手紙の中で, 霊媒者のクックと霊姿(れいし)のケイティーの容姿に, いくつかの重要な相違点があったことに触れている。それは, ケイティーはクックより15センチメートルは背が高かったと断言しているのである。 霊媒のクックは, 首のところがザラザラしていて, 水ぶくれの跡があったが, 霊姿の少女の膚(はだ)は, すべすべしていてなめらかだった。また, クックはいつでもイヤリングをしていて, 耳にイヤリングを通す穴があいていたのだが, 霊姿のそれには, なかった。 さらに霊媒者の顔色はくすんでいたのに, 霊姿のそれは晴れ晴れとしていた。そしてケイティーの指は, クックのそれよりも長く, 顔も大きかったという。
*
ケイティーが, フローレンス・クックの霊媒によって初めて姿を見せたとき, ケイティーは自分が
こうして姿を見せるのは3年間だけだと告げたという。
ケイティーが
最後に姿を現わした夜, 彼女はクルックス卿に, クックと体を触れ合わせて別れを告げる場面を見てもいい, と言った。彼は, そのときのことを 『スピリチュアリスト(The Spiritualist)』誌に, こう書き送っている。
「カーテンを閉めてから, ケイティーは私としばらく話を交わした。それから, 失神状態で床に横たわっているクックのほうへと歩いていった。そしてケイティーは身をかがめ, クックに手を触れ 『起きなさい, フローリ。起きなさい, もうお別れよ』 と言ったのである。するとクックは身を起こし, 涙にくれながら, ケイティーにもう少しいるように懇願した。『それがだめなの, フローリ。私の仕事は終わったのよ。あなたに神の恵みがありますように。』 ケイティーはそう言って, 二人は, おそらく数分間は話し合っていたであろう。やがて私はケイティーにうながされて, クックを抱きかかえるために近寄って行った。クックはヒステリックに泣き叫び, 床に倒れていた。私が辺りを見回したときには, すでに, 白いローブ姿のケイティーの姿は消えていた。クックがもとの正気に返るまで待ち, それから灯(ひ)がともされた。そして私はクックをキャビネットから連れ出した。」
【参考文献】(下記から引用)
『心霊の世界』【第3章/ ついに科学者が乗り出す】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年


 

若いころのフローレンス・クック
(★若いころのフローレンス・クック)
■サイト:「american hauntingsink. com」から

現われ出たケイティー・キングの霊姿
(★霊媒フローレンス・クックによって現われ出たケイティー・キングの霊姿写真)
『心霊の世界』より

ケイティー・キングを, リンのランプで見るウィリアム・クルックス卿のイメージ画
(★失神状態で横たわる霊媒者フローレンス・クックの後ろに立つケイティー・キングを, リンのランプで見るウィリアム・クルックス卿。クルックスの家のキャビネット代わりに使われた図書室での光景を描いた絵。霊媒は誰でもキャビネットを使うが, これは心霊的なエネルギーを凝縮させるためだといわれる。文:『心霊の世界』から
■絵:サイト「en.wikipedia.org」から

【参考外部】
en.wikipedia. org(Katie King (spirit))
en.wikipedia. org(Florence Cook (medium))
オカルト・クロニクルokakuro.org(ケイティ・キング 美人霊媒の呼び出す美人幽霊)
スピリチュアリズム世界史年表hk7.tokyo(フローレンス・クック)
encyclopedia. com(Cook, Florence Eliza (1856-1904))
american hauntingsink. com(THE HAUNTED MUSEUM:THE MEDIUM AND THE SCIENTIST)
nfsa.gov.au(Sir William Crookes with spirit Katie King)
orau.org(William Crookes and the Spectral Visitor)
●ケネディ大統領の暗殺を夢で見た少年
1963年11月22日に起こったケネディ大統領の暗殺を, 事前に夢で見ていた少年がいた。

ケネディ大統領 は,
1963年11月22日金曜日, 現地時間12時30分にテキサス州ダラス市内で遊説中に銃撃され暗殺された。
後になって, このケネディ大統領の死は, 相当多くの人に予知されていたことが判った。その中の一つの話である。
オハイオ州コロンバスの町の病院に, リッキイ・マクドウェルという8歳の少年が, 白血球過多症で入院していた。リッキイは,
11月20日以来, 半ば昏睡状態に陥っていた。
22日の朝7時, リッキイはふと眼を覚まし, ベッドそばにいる母親に, 大統領が死ぬところをいま夢に見たことを話した。
リッキイは,
2時間ほど眼を開けていたが, やがてまた昏睡に陥った。そして, そのまま二度と眼を覚ますことはなく, 12月28日に亡くなった。
【参考文献】
『予言と怪異物語』,1964年,著:黒沼健


 

【参考外部】
●=>Wikipedia(ケネディ大統領暗殺事件)
●煙の中に消えた謎の飛行機(ノルウェー)
1937年2月11日, ノルウェーのクヴァルスフィクを出航したフィッシング船の「フラム」号が, 着水している不思議な飛行機を目撃した。

<この事件は, 「幽霊飛行機事件」の一つである>

この日, 午後9時にフィッシングボートの 「フラム(Fram)」 号は, ノルウェーのクヴァルスフィク(Kvalsvik)を出航した。
クヴァルスフィクを出たところに, 高い山で本土と隔てられた岬がある。 フラム号がこの岬を回ったとき, クルーはとても大きい飛行機が着水しているのを目撃した。
何かトラブルが起きているのかと思い, フラム号の船長はコースを変えて, その飛行機に向かっていった。
その飛行機には, 赤と緑のライトが光っていたが, ボートが接近すると, その光は突然消えた。 そして, その飛行機はたちまち雲のような煙に包まれ, そして消滅した!

その翌日(1937年2月12日)の昼, 正体不明の航空機がオーストリアのウィーンの上空に現われて, 都市の周りを飛び回った。
この事件は, ヨーロッパの新聞に広く取り上げられたほど異常なものだった。
【参考文献】
『UFO超地球人説』【第7章/ 未確認飛行機】, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平, 1976年


 

【参考外部】
UFOdna(11 Feb 1937 - Kvalsik, Norway)
intcat(INTCAT 1930 - 1939)
●ケート・フォックスの降霊会(1861年〜)
1861年, ニューヨークの富豪の銀行家, チャールズ・リバモアと降霊会を開く独占契約を結んだケート・フォックスは, 5年間で約400回もの降霊会を行なった。

1850年代
になって フォックス姉妹 のマーガレッタ(2女)が結婚し, リーア(長女)が再婚すると, 二人は一時, 公(おおやけ)の場から 霊媒 としての身をひくことになった。
霊媒者としての仕事を続けた3女のケート(Catherine "Kate" Fox)は, やがて "音" ばかりでなく, "霊の姿" まで呼び出すようになった。
1861年, 彼女はニューヨークの富豪の銀行家, チャールズ・リバモア(Charles Livermore)と 降霊会 の独占契約を結んだ。リバモアは, この1年前に亡くなった妻のエステルの霊を呼び出したかったといわれる。
リバモアのお抱え霊媒者としてのケートは,
5年間約400回もの降霊会を行なったといわれている。この降霊会に参加した著名人も多数いたらしい。降霊会では, ドアはしっかりと閉められ, 記録も詳細になされた。
ケートが音だけでなく, "霊の姿" を呼び出すようになったのは, この時期だといわれ, その霊が, エステルであると判明したのは, 43回目のときであったという。伝えられているところでは, 霊が徐々に姿をあらわにしてゆく間, ケートが意識を失うことはなかったらしい。時間がたつにつれ, 霊はその姿を次第にはっきりとさせた。だが, 言葉はわずか1語か2語どまりで, 会話は, コツコツたたく音と, 筆談によって行なわれた。
霊の姿はエステルばかりではなく, ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も現われたという。霊は, リバモアが持ってきたカードに筆記した。 霊(リバモアの亡き妻)がその通信をつづる間, いんちきができないように, 参加者の一人が, ケートの手をつかんでいた。だが, カードの筆跡は, 生前のエステルのものとそっくりだったという。
388回目の降霊会で, エステルの霊は, 姿を見せるのはこれが最後だと告げた。それ以後の降霊会で, 彼女が再び姿を現わすことはなかったという。
*
ケート・フォックス
(★ケート・フォックス)
リバモアは感謝の気持ちからケートの後援者となり,
1871年にケートをイギリスへ旅立たせた。
このころ, イギリスでも 心霊術 は大衆が認めるものとなっていた。ケートは多くの貴族や有名人を集めて降霊会を催すことになった。
その中の一人が, ウィリアム・クルックス卿 で, 彼は後に心霊術の中心的な研究者となる。ケートはまた二人の霊媒者, サミュエル・ガピ夫人, ダニエル・ダングラス・ホーム との共同降霊会を開いたりもした。
【参考文献】
『心霊の世界』【第1章/ ハイデスビルの怪しい音】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年


 

【参考外部】
●=>findagrave.com(Catherine "Kate" Fox)
●=>smithsonianmag.com(The Fox Sisters and the Rap on Spiritualism)
●=>britannica.com(Catherine Fox American medium)
こ
●氷を砕いて進む怪物体
1976年4月30日にスウェーデンにあるシリヤン湖で, 厚さ20センチの氷を砕きながら湖面を進んでいる長さが10メートルほどのダークグレーの物体を3人が目撃した。

この日の午後5時15分から30分にかけてのことである。
スウェーデン中南部のシリヤン湖(Lake Siljan)で, 3人の目撃者が湖面を覆う分厚い氷を砕いて進む巨大な灰色の物体を見た。
物体は長さが10メートルほどで, 時速100キロ近い速度で進んでいたようで, 物体の両側に氷の塊や水を吹き上げていた。物体の作った水路は, 幅が3〜3.5メートルで, 長さが800メートル以上にわたって続いていた。
湖には, 厚さ20センチほどの氷がはっており, 氷の砕け具合から見て, 恐ろしく強力な何かが, 下から氷を突き破って進んだと考えられる。
氷を砕きながら湖面を進んでいる謎の物体のイメージ画
【参考文献】
『X-ZONE(No.26)』【海底のミステリー】, 1997年


 

【関連サイト検索キー: Lake Siljan, Sweden, 30 April 1976, UFO
waterufo. net (Lake Objects Reported In Scandinavia)
books. google. co. jp (UFOs and Water)
intcat (INTCAT 1976)
●黒衣の男たちの出現
UFOの目撃者や調査員の前に, ふと現われる奇妙な三人づれの紳士がいる。

アルバート・ベンダーの前に現れたMIBのスケッチ画
(★アルバート・ベンダーの前に現れたMIB)
『UFO最後の真実』から

この紳士たちは, たいていの場合, 東洋人的風貌をして, 地味な黒っぽい衣服を身につけている。
空飛ぶ円盤を見に行って, 途中で黒衣の男たちに会ったことのある人は, てっきりCIAの秘密工作員がいやがらせに来たのだと, みな信じていた。
この, 「黒衣の男たち」(MIB)があらわれるときは, たいてい黒塗りの大型車, 特にキャデラックに乗っていて, UFOを追いかけるアマチュアたちを混乱させる。 この奇妙な3人連れは, ここで見たことをひとに話さぬほうがよい, と警告し, ときには脅迫したという。
そして, この3人は, 車ごと妙なぐあいに消え去ってしまうのだ。初めそれを聞いた人は信用せず, 嘘をいっているか幻覚を見たかしたのだろうと相手にしなかった。 ところが, 同じような事件の数は次第にふえる一方で, 懐疑的だった調査員たち自身が 「黒衣の男たち」 と遭遇する羽目になって震えあがった。
UFO調査員が急死したり, 自殺したり, 神経衰弱になったりした例は, おびただしい数にのぼっていたのだ。
【参考文献】
『失われた惑星文明』【第2部/ 疑似人類の暗躍】, 1975年, 著:ジョン・A・キール, 訳:北村十四彦

 

【参考外部】
Wikipedia(メン・イン・ブラック)
GAsite(第6章 異星人は我々のなかにいる! 第2話 宇宙よりの来訪者)

TOCANA (不気味な「黒づくめの集団(MIB)」が米国の道路に頻出! 警察「本気で調査する」
MAGONIA REVIEW: MIB ENCOUNTERS (pelicanist.blogspot.com)
●コティングリーの妖精
1917年夏, イギリスのヨークシャー州のコティングリー(Cottingley)で, 少女たちが戸外で撮った写真に, それまでに記録されたことのない生物が写っていた。 いわゆる妖精たちであった。

7月のよく晴れた日に エルシー が撮影した最初の写真は, 「フランシスと妖精たち」 という題が付されている。写真には翼のある生物が5人見える。1人は2人の陰にほとんどかくれている。
9月フランシス が撮った2枚目の写真は 「エルシーと地の精」 という名で知られるものであるが, 写っているのは, とがった帽子をかぶり, ひだえりのある服を着て2本の管楽器のようなものを持ったもので, 想像できる最も奇妙な妖精といわれるものである。
このコティングリーの写真は, 当時学識もあり尊敬を受けていた人物の一人である, サー・アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle)によって徹底的に調査された。彼は, あらゆる可能性を注意深く考え, インチキではないことを確信し, 妖精の存在を証明する1冊の本を書いた (『妖精の出現』(
1922年))。
ドイルが, 写真の信憑性を確信するようになったのは, 次のような理由によるものである。
●彼女たちがカメラについて知っていたのは, シャッターの押し方だけだった。純真で親切な少女たち(10歳と16歳)が人をだますのは, 不得手であること。
●写真は英国コダック社の研究室にも送られ, 数人のベテラン写真家の手で徹底的に調査されたこと。熟練した写真家で, 適当な設備があれば同じような写真を作り上げることができることを指摘したが, 少女たちは, そのような設備を持っていず, 持っていたとしても使い方を知らないだろう。
●長年の経験を積み特殊撮影技術にも精通している商業写真家のH・スネリング氏も, 「スタジオで手を加えた形跡は全くない・・・修正されないままの写真である」 と言い, この写真がインチキでないことを証明するためには自分の今までの名声をかけてもよい, とまで断言している。
【参考文献】
『UFOと宇宙(No.33)』【第一次大戦中に撮影された翼のある宇宙人, 文:ロバート・シェーファー, 訳:増野一郎】, 1978年


●「コティングリー妖精事件」とは−
コティングリー(Cottingley)は, イギリスの北部ヨークシャー(Yorkshire)の小さい町である。
ここに住むライト家(Wright's)の娘であった エルシー・ライト(Elsie Wright - 当時16歳) と従妹の フランシィス・グリフィス(Frances Griffiths - 当時10歳) が, 林から家の裏庭を流れる小川 【この地方ではベック(beck)と呼ぶ】 の堤で撮った写真のまわりに, ダンスをする妖精や膝にのってくるノーム (gnome)などの妖精たちが写っていた。
この写真が, 「本物か拵(こしら)え物か」 をめぐり, 1917年から約66年間, 人々のあいだで様々に論争されたのが 「コティングリー妖精(Cottingley Fairies)事件」 である。
はじまり
1917年7月のある土曜日の午後に, エルシーは父親のアーサー・ライト(Arthur Wright)に写真機を貸してくれるように頼んだ。ついひと月前に買ったばかりの写真機であり, ガラスの感光板はなかなか手に入れることができなかったので, アーサーはそれを渋ったが, 結局は娘に貸すことになる。
アーサーが, 小さなファインダーの使い方やガラスの感光板の取り付け方などを教えると, エルシーはフランシスを連れて生まれて初めての写真を撮りに飛び出していった。
二人は30分ほどで戻ってきて, しきりに感光板の現像をせがんだ。アーサー家には間に合わせの暗室があり, そこには写真の現像に必要な材料もすべて揃えてあった 【写真技術が一般大衆に知られて間もないころだった】。
アーサーが現像に取りかかったのは, 午後のお茶の時間も終わってからのことで, エルシーは小さな暗室に父を押し込むようにして入り, フランシスは部屋の外でドアに耳を押し当てて中の話し声に聞き入っていた。
感光板を動かしていると, まずフランシスの顔が現われた。うまい具合に片肘を土手につき, カメラを見つめている。次に,そのまわりにサンドイッチの包み紙のように見えるものが現われた。アーサーが川のほとりを散らかしてはだめだと叱ろうとしたそのとき, 羽が現われ, アーサーは鳥が写っているのかと思った。つづいて小さな足と手が出てくると, 彼は茫然として黙り込んでしまった。
エルシーは, 「妖精が写っているわ !」 と大声でドアの向こうのフランシスに叫ぶと, かん高い喜びの声をあげた。
しばらくして, セピア色の写真が出来上がると, もっと細かい部分も見えてきた。何食わぬ様子のフランシスの前で5つの姿が踊っているように見える。背景には滝があり, キノコも写っていた。
エルシーが撮影した最初の妖精写真
(★エルシーが撮影した最初の写真。上がオリジナル。下は修正されて, 1920年の 『ストランド』 誌に掲載されたもの。かなりレタッチされているのがわかる。また, オリジナルではフランシスの頭のうえにぼんやりとした光のようなものが写っている。)
9月にアーサーの写真機は再び借り出され, 今度はフランシスが小川の北側の岸辺の樫の古木の前で, エルシーの写真を撮った。露出過多の感光板から現れたセピア色の写真には, こともあろうにノームが写っており, これにはアーサーも仰天してしまった。
フランシスが撮影したエルシーとノーム
(★フランシスが撮影したエルシーとノーム。奇妙に細長く伸びたエルシーの手の指に関し, 納得のいく説明はない。)
エルシーの手と指は奇妙に長く伸びていた。それは自分が初めて写真を撮ったので, きっと写真機の構え方のせいだとフランシスは伯父に説明した。
あの場所には, よくノームが現われるのだと二人は口をそろえて断言した。
その後, アーサーは娘たちに二度と写真機を貸さないようになった。
小川のほとりには本当に妖精がいて, それが写真に写っているのだと言い張るエルシーとフランシスは, 家族や友人のあいだでは, ちょっと変わり者だと思われるようになっていった。
●ガードナーとドイル
ライト家の机の引き出しの奥にしまい込まれ, 何かの冗談として忘れられていたガラスの感光板とセピア色の写真は, その後, エルシーの母親ポリー(Polly)が, 神智学(theosophy) の講演会で, 子供が撮った写真が本物かどうかを講師に訪ねたことから, 1919年神智学協会(Theosophical Society)エドワード・L・ガードナー(Edward Lewis Gardner) が知るところとなる。
ガードナーは, 当時写真家として開業したハロルド・スネリング(Harold Snelling)を訪ね, セピア写真とそのもとになった感光板を渡してトリックのないことを調べさせたりもした。
そんなわけで5月には, ガードナーはかなりの確信をもって, 二枚の写真のスライドを公開している。
そのころ アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle) は, 『ストランド』 誌( The Strand Magazine)の編集長に妖精に関する記事を書いてほしいと頼まれていたため, この妖精写真について詳しく調べ始めた。そして最終的に, エドワード・L・ガードナーに辿り着き, 1920年6月に二枚の写真を手にすることになる。
●3枚の妖精写真
仕事が多忙だったドイルは, ガードーナーに調査を依頼した。ガードナーはコティングリーに何度も足を運び, 二人の少女やその家族に会い話を聞いている。
またガードナーは, もっと妖精の写真を手に入れるために, 二人に性能のよいカメラとたくさんの感光板を支給した。少女たちは, そのカメラで, さらに三枚の妖精写真の撮影に成功する。
フランシスと飛び跳ねる妖精
(★「フランシスと飛び跳ねる妖精」, エルシーが1920年8月19日撮影)
エルシーにヘアーベルの花を差し出す妖精
(★「エルシーにヘアーベルの花を差し出す妖精」, フランシスが1920年8月19日撮影。上の写真と同じ日に撮影された)
妖精の繭の家
(★「妖精の日光浴」 または 「妖精の繭の家」, 1920年8月21日午後撮影。撮影者がエルシーかフランシスかは不明。エルシーは, 自分だけで撮ったと主張(1983年)しているが, フランシスはエルシーの助けを借りて自分が撮ったと主張している)
●『ストランド』誌への掲載
1920年11月末に発売された 『ストランド(クリスマス特集号)』 の誌上に, コナン・ドイルが書いた記事 「写真に撮られた妖精たち」 についての小論が掲載され, たくさんの人たちが知るところとなる。
ドイルが, この記事を書いた時点では, 残りの3枚の写真については知らされていなかった。この3枚の写真を含めた見解で書いた本が, 『妖精の出現』(1922年刊)である。
これらのことを疑う人たちは, 厚紙を切り抜いた妖精だと一笑に付した。ドイルやガードナー, それを信ずる人たちは, 「自然の精霊」 が存在するとして弁護し, 妖精の写真は本物であることを説明した。
●その後
1921年を境に, 精霊についての報告はコティングリー村からいっさい届かなくなる。 そして1930年代には, コティングリーの妖精は, 誰からも顧みられなくなっていた。
エルシーはヨークシャーからアメリカ大陸に渡り, 技師のフランク・ヒルと出会い結婚しインドに移住し, その後イギリスに帰国した。
フランシスは, シドニー・ウェイという軍人と結婚し, 夫が退役後にイングランドの中部地方で暮らした。
エルシーとフランシスのもうけた子供たちは, それぞれが成功をおさめて, 幸福な結婚をした。すばらしい子供にも恵まれている。
エドワード・ガードナーは, イギリス各地で数多くの講演旅行を終えると, 神智学協会での地位も上がって, もっとも栄誉ある会員の一人となった。
1945年
に70歳を超えたガードナーは, コティングリー妖精に関する本を出すが, ドイルの記述に新たな要素を加えることはほとんどなかった。
●真相
1960年代に入ると, 事件はもう永久に葬り去られてしまったかのように見えた。
しかし, 1965年, ある新聞社がエルシーの住所をつきとめ, 5月の 『ディリー・エキスプレス』 紙に, 記者ピーター・チェンバース(当時60代)の記事が載った。
チェンバースは, あの事件には何らかのトリックが使われていると感じていた。その記事には次のようなエルシーの言葉が引用された。
「あの写真については, フランシスと私の想像力から生まれた作り物といっておきましょう。それで勘弁してください」。これは, 1970年代に様々なメディア関係者からインタビューを受けたエルシーが, 繰り返し述べた言葉である。
1971年, BBCテレビ番組 『ネイションワイド』 は, 妖精の物語を復活させた。
プロデューサーのリン・ルイスは, エルシー(当時70歳)のインタビューを彼女の自宅で行い, フランシスのインタビューは, 彼女が寮母をしていたエプソム大学で行った。
ルイスは既にコダック社におもむき, 最初の2枚の写真には人形かモデルが使われており, 後の3枚は二重撮りされているのではとの情報を得ている。しかし, 肝心なこの質問に対して, 二人は穏やかに話をそらしたのであった。
この番組を見ていたフォークロア学会(イギリス民族学研究会)の役員であり妖精の生態学の学者, スチュアート・サンダーソン教授は, エルシーが言葉をにごすのに気づき, 偽造写真の疑いを証明する鍵を握っていると考えた。そして1973年3月, 年次の講演で 『コティングリー妖精事件』 を取り上げ, 写真が偽造であると推測されることのいくつかの問題点を提示した。
1976年にYTV(ヨークシャー・テレビ局)の15分番組で, コティングリー妖精事件についての最新情報が紹介された。これを機会に, 二人が一緒にコティングリーに戻るのは二十代のとき以来初めてであった。
1978年8月10日付けの 『ニュー・サイエンティスト』 誌に, ジェームズ・ランディ(James Randi -アメリカの奇術師) が明らかにしたコテングリー妖精写真の暴露記事が掲載された。CSICOP(サイコップ−超常現象の科学的調査のための委員会) によるコンピュータの画像処理を利用して, 問題の写真の画質を高めるというもので, 同委員会のロバート・シーファー氏, その同僚の ウィリアム・スポールディング(William H. Spaulding) 氏がその技術を妖精写真に適用した。そして, 妖精を支えている紐など, 偽造の証拠がいくつも発見された 【しかし, ヘアーベルの花をエルシーに差し出している妖精と空のあいだに見える筋が紐であるという指摘は間違っている】 というものである。
またランディは, フレッド・ゲティングズ(イギリスの美術史家)が, 1914年に発行した 『メアリー王女のギフトブック』 の104ページに載っているノイズの妖精の詩の挿絵が, 問題の1枚目の写真に写っている妖精と酷似していることを見つけたことを指摘した。
(★「メアリー王女のギフトブック」 中のノイズの詩の挿絵 「踊る妖精」
(★「メアリー王女のギフトブック」 中のノイズの詩の挿絵 「踊る妖精」。フランシスはこの本を1917年アフリカからライト家に持ってきた)
1978年10月に, ジェフリー・ケイスの脚本, アン・ヘッドのプロデュースでBBC2の "今週のドラマ” 『妖精』 が放送された。このドラマに興味を募らせたフランシスは, ドラマの制作中にフランシスの当時の体験談などをアン・ヘッドに提供した。
1980年, ジェームズ・ランディは 「コティングリー妖精事件」 に最終結論を出す本を出版し, 写真はエルシーが何かの挿絵を, あるいはその一部を写し取ったものを切り抜き, それに羽根を付けたものだという見解を述べた。
1981年にエルシー(当時80歳)は, 息子グレンに妖精写真について告白するよう説得された。フランシス(当時74歳)も, ジョー・クーパー(Joe Cooper) に写真が偽造であることを語った。写真に写った妖精は, エルシーが 『メアリー王女のギフトブック』 の挿絵を模写したものであったという。
1982年12月発行の 『アンエクスプレインド』 誌に, ジョー・クーパーの 「コティングリー−ついに真相が」 が掲載されたことで, まずフランシスが1983年4月9日付けの 『タイムズ』 紙で真相を告白した【だが, フランシスが最後に撮った写真だけは本物であると主張している】。
エルシーは, この記事に対するコメントを断っていたが, そのうちに記者やカメラマンが自分の家にくるのを許した。そこで, エルシーはボール紙から妖精の姿を切り抜くさまを写真に撮らせたのである。
『英国写真ジャーナル』 の編集長ジェフリー・クローリーは, 1982年12月から1983年4月にかけて, この自分の雑誌に, 「コティングリー妖精に関する驚くべき事件」 について10編の記事を書いた。これらの中でクローリーは, エルシーとフランシスが使用したカメラや, 二人がその後に撮った写真, 二人の経歴や冒険談をすべて事細かに検討している。
またクローリーは, 1983年4月9日付け 『タイムズ』 紙上で, 問題になっている最後の写真について, 二重撮りであることが推測されることを述べている。また, なぜコナン・ドイルが亡くなったあと, この事件の調査が引き継がれ行なわれなかったかの理由として, コティングリーの資料が, エドワード・ガードナー氏によって閉ざされていたことを述べた。
1985年5月のアーサー・C・クラーク(イギルス出身のSF作家)のITVのテレビ番組が放送されたが, この謎がどうやって解決されたかについて科学的観点を導入して, たどろうとしたものだった。
●疑問?
しかし, それでもいくつかの疑問が残る。エルシーとフランシスは, 本当にコティングリーで妖精を見たのだろうか?
フランシスが娘の家で亡くなった後の1986年7月に, フランシスの娘は 「妖精は本当にいたんです。母は話の内容を頑として変えようとしませんでした」 と言い, フランシスは最後までその意見を通したことを述べている。
また, 晩年エルシーが妖精を放棄したのは, 疲れ, 病気がちな老婦人がこれ以上, 記者たちを寄せつけないために考え出した計略ではなかったのか。
【参考文献】
『コティングリー妖精事件』, 1999年, 著:ジョー・クーパー, 訳:井村君江


 

【参考外部】
Wikipedia (コティングリー妖精事件)
En. Wikipedia (Cottingley Fairies)
Wikipedia (ノーム (妖精))
大山顕×浜野志保「見えない妖精はなぜ写真に現れるのか#ゲンロン210804 - YouTube
enigma-calender.blogspot.com(最後の一枚は本物だったのか? 〜コティングリー妖精事件が嘘と判明した日)
都市伝説をまとめてイッキ読み!(コティングリー妖精事件!妖精と共に映る少女の写真!真相と真実とは!)
スチームパンク大百科 (心霊研究家コナン・ドイルが巻き込まれたコティングリー妖精事件とは?)
みどりの瞑想ブログ (コティングリー妖精事件の最後の一枚とは!!)
●小人(こびと)宇宙人目撃事件
1965年8月の夜, ワシントン州シアトルに住む若い女性が, 窓から寝室に侵入してきたフットボールぐらいの小型UFOに遭遇し, なかから出てきた5,6人の小人を目撃した。

この報告は, ジョン・A・キール(John Alva Keel) が受け取ったUFO情報のなかでは異端のものである。
1965年8月の後半, 彼女は午前2時に目をさました。その時, 彼女は自分のからだを動かしたり声を出したりすることができなくなっていることに気づいた。 寝室の窓が開いていて, 突然, 小さいフットボールぐらいの大きさのくすんだ灰色の物体が現われた。
それは, 漂いながら窓からはいってきて, 彼女のベッドに近いカーペットの上の宙を舞った。
その物体から3本の脚が降りてきて, フロアに定着した。 小さなタラップが降ろされ, 5,6人の小人たちが出てきた。 小人たちは, からだにぴったりの服を着ており, その物体の修理に取りかかかっているように見えた。
小人たちは, 仕事が終わると, 再びタラップをのぼり, 物体の中に姿を消し, 物体は, 離陸し窓の外に飛び去っていった。
そのとき, ようやく彼女は身動きできるようになった。 彼女は, 確かに完全に目をさましていたという。 また, からだを動かすことができなかったあいだに, 声をあげたり, 驚いて跳び上がったりしたいとは思わなかったという。
【参考文献】
『UFO超地球人説』, 1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平


 

「モスクワ・UFO展覧会」での作品
(★1989年に開かれた「モスクワ・UFO展覧会」での作品;画:ビクトル・コロリョフ)
『モスクワ上空の怪奇現象』から

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