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怪奇・不可思議事件集3
(さ〜そ)

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さ し す せ そ
さ
●砂漠に消えた足跡
1924年7月, イラク砂漠上空で遭難していた英軍の複葉機を捜索したところ, 複葉機は砂漠に着陸していたが, 乗っていた二人の乗員の足跡が機から40メートルのところでぷつりと消えていた。

1924年7月24日
, イラク砂漠の上空を偵察飛行していた英軍の複葉機が, なぜか砂漠の中に着陸し, 停止した。
乗員は,W・T・ディ空軍中尉とD・R・スチュワート航空少尉の2名で, この日の任務は砂漠上空の通常の偵察飛行であった。
予定時刻を過ぎても帰還しない2人の捜索のために, 捜索機が飛び立った。捜索機は, まもなく砂漠に着陸している遭難機の機影を発見した。
救援のため, 捜索機はただちにその近くの砂漠上に着陸した。すると, 遭難機の機体には何の損傷も故障もなく, 燃料もタンク半分も残っていた。念のためエンジンを始動してみると, 苦もなく回転をし始めた。
しかし, 機上に2人の乗員の姿はなく, 機の片側の地上に2人の降り立った足跡があった。その足跡は2人並んで, 砂漠上に鮮やかに残され, まっすぐに続いていた。だがその足跡は, 機から約40メートルの所で, ぷつりと消えていたのであった。
数百マイル平方にわたり捜索されたが, 2人の人影は見つからなかった。
【参考文献】
『ミステリゾーンへの飛行』【「砂漠に消えた足跡」, 文:入江俊哉】, 1982年


 
し
●瞬間移動したサミュエル・ガピ夫人
1871年6月3日に開かれた交霊会で, 3マイルほど離れた自宅にいたサミュエル・ガピ夫人が, 交霊会室に瞬間的に現われた。

1871年6月3日, 二人の 霊媒 フランク・ハーン(Frank Herne)とチャールズ・ウィリアムズ(Charles Williams)が, 上流階級の8人を交えて共同 降霊会 を催していた。会場はロンドン市の中心部に近いある家である。
そのとき会場の参加者の一人が, 冗談半分に, 現われた霊(このとき降りていた霊はハーンとウィリアムズの 支配霊(spirit-guide)ジョン・キング(John King) と娘の ケイティー・キング(Katie King) であった)に, サミュエル・ガピ夫人(夫人はこのとき, 有名な霊媒者であり, 普通の人よりは巨体であった) を, ここに連れてきてくれないかと言った。このときガピ夫人は, 会場から5キロメートルほど離れた自宅にいた。
すると, ケイティーの声はくすっと笑って同意した。突然, テーブルの上に重いものが置かれる音がした。周囲から悲鳴が聞こえた。だれかがマッチをすって見ると, なんとそのテーブルの上にガピ夫人が座っていたのだ。夫人は混乱状態でペンとノートを握っていたという。
参加者のうちの3人に付き添われて, ガピ夫人は家に戻った。3人の中には, 週刊誌 『スピリチュアリスト(The Spiritualist)』 の編集者もいた。ガピ夫人の家では, 彼女の友人が心配しながら待っていた。友人はガピ夫人と一緒にいたのだったが, 突然, 天井の辺りに一片の煙を残して, 夫人が消えてしまったと言った。
【参考文献】(下記を参考にまとめました)
『心霊の世界』【第1章/ ハイデスビルの怪しい音】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年


サミュエル・ガピ夫人 の場合は, C・ウィリアムズ(Charles Williams)とH・ハーン(Frank Herne)の2人の 霊媒 と8人の目撃者の前で
(1871年6月3日午後8〜9時の間)生起されたもので, ロンドンのハイベリー(Highbury, London)のガピ夫人の自宅から3マイル(約4.8km)以上も離れたラムズ・コンディット(Lamb's Conduit)街のC・ウィリアムズ家の鍵がかけられた 交霊会 室に トランスポート されている。
この状況に関する文書が, 直ちに上の8名の目撃者と3名の霊媒の署名とともに作成され, 『スピリチュアリスト(The Spiritualist)』誌
(1871年6月15日)に報告されている。
それによると, 交霊室は約3.6×3.1mの広さで, 楕円形のテーブルのまわりを10名の人達がぎっしりと取り囲み, 一方, ドアには鍵がかけられ, 窓には光を遮るための被いがされていた。
出現していた 支配霊(スピリット・ガイド) は, ジョン・キングケイティー・キング で, 直接談話現象 によって会話が行われた。参加者の一人ハリソン氏(Mr. Harrison)による面白半分の提案で, 先に行われたガピ夫人の家の交霊会で, H・ハーンがトランスポーテイションさせられた
(1871年3月19日), そのお返しとしてガピ夫人を呼び寄せることになったのだ。
それから,
3分と経たないうちにドシンという音がテーブル上で聞こえたかと思うと, 参加者の一人が, 何者かのドレスのようなものが触れたことを告げた。それで明かりをつけると, 体格のよいガピ夫人がテーブルの上で身動きができず, 入神(トランス)状態 で, しかも震えていた。
彼女は帽子も被らず, 靴も履いておらず, 右腕は両目の上にあり, その手にはペンを持ち, 左手は脇の下の方へだらりと下げ, 家計簿を持っていた。ペンについているインクとその家計簿の最後の部分の文字は, まだ濡れていた。
彼女は, どうしてこの場にいるのか分からなかったが, 記憶の最後の場面は, 友人と家にいて家計簿をつけていたということであった。
彼女が回復してからも交霊会が続けられ, 彼女の靴, 帽子, 多くの衣装, その他花などが, 全て彼女の家から引寄せられた。
その後夫人は, 2台の車で, 4名の目撃者に伴われて帰宅し, トランスポーテイション 前後の模様の証言がとられている。
【参考文献】(下記より抜粋引用)
『スピリチュアル用語辞典』【トランスポーテイション】, 著:春川栖仙, 2009年


 

【参考外部】
encyclopedia. com(Guppy-Volckman, Agnes (1838-1917))
encyclopedia2. the freedictionary.com(Guppy-Volckman, Agnes Nichol Guppy-Volckman, Agnes Nichol (d. 1917))
●シンデレラの靴の奇跡
童話のシンデレラ姫の話は, 4千数百年の昔, エジプトにあった出来事に由来する。

ある日, ロードピスという娘がエジプトのナイル川で水浴をしていると, 突然一羽のワシが舞い降りてきて, 砂の上に脱ぎ捨ててあった彼女のサンダルぐつを掴んで飛び去った。
ワシはそのくつを掴んだまま, そこから800キロも離れたメンフィスの都まで飛んでゆき, ちょうどエジプト王ミケリノスが裁判官たちと歓談をしている席に落とした。
王は空から落ちてきた美しいサンダルぐつを見て, ひじょうに驚き, さっそく部下たちに, そのくつの持ち主をさがさせた。
800キロも離れたところにいる持ち主なので容易に分からなかったが, いろいろ苦心しての捜査の末, ロードピスのものであることがわかった。
そうしたことが機縁で, ロードピスはミケリノス王に見染められ, のちにエジプト王妃となる。有名なシンデレラ姫の物語は, このロードピスの話をもとにして, フランスの童話作家シャルル・ペローがつくったものだという。
ロードピスはエジプト王妃になるとまもなく, 病気になって死んでしまう。王は非常に悲しんで, ロードピスのためにピラミッドを建てた。
いま, エジプトのギゼーの町にある3つの大きなピラミッドのうち, 3番目のものはミケリノス王のものとされている。このピラミッドのわきに, 家族のためのピラミッドがいくつかある。おそらく, ロードピス妃のものもそのなかにあるに違いない。
【参考文献】
『世界の奇跡【5章/ 国王と女王にまつわる奇談】』1964年, 著者:庄司浅水

 

【参考外部】
Wikipedia(シンデレラ)
●心霊写真の「はじまり」
初めての心霊写真は, 1862年にアメリカの彫刻家ウィリアム・マムラーが撮ったものだといわれている。

アメリカのマサチューセッツ州ボストンに住む, 彫刻家の ウィリアム・マムラー(William H. Mumler) が, 自分の写真を撮ったところ, そばに従妹(いとこ)の姿がぼんやりと写っていた。それは,
1862年 のことである。
【下記を参照】
■事件詳細(サイト内)=>関連用語集(最初の心霊写真とウィリアム・マムラー)


1884年にマムラーは亡くなる直前に, 自身が撮った 心霊写真 のネガを破棄しており, 現存するのは何枚かのプリントのみである。
しかし, マムラーの死は, 心霊写真というジャンルの死を意味するものではなかった。 それは, 写真というメディア(媒体)が, 既に目に見えない世界をとらえ始めていたからである。肉眼ではとらえられないものが 「写る」 ということが, 次第に例外的な現象では, なくなりつつあったのだ。
*
アメリカで起きた心霊写真騒動は, ほどなくイギリスに飛び火した。ロンドンで発行されていた 『スピリチュアリスト』 誌の
1872年4月号の一面と二面のほとんどを使って, ついにイギリスでも心霊写真が撮影されたと報告している。
それは, ジョージアナ・ホートン(Georgiana Houghton) が寄せた報告からのもので, アマチュア写真家サミュエル・ガピ(Samuel Guppy)と妻である霊媒 ガピ夫人(かつてのアグネス・ニコル(Agnes Nicholl)嬢) は, 写真家 フレデリック・ハドソン(Frederick Augustus Hudson) の手を借りて, 心霊写真の撮影に成功したというものである。
ガピ & ハドソンの心霊写真が, マムラーのものと大きく異なっているのは, スピリチュアリスト でない人間が偶然に写したものではなく, 霊を写真にとらえるという明確な目的のもとに, 霊媒 を用いて撮影されたという点である。
この報告を 『クリスチャン・スピリチュアリスト』 誌にも寄せたジョージアナ・ホートンは, それを再録した 『肉眼では見えない霊的存在および霊的現象の写真の年代記(Chronicles of the Photographs of Spiritual Beings and Phenomena Invisible to the Material Eye)』
を1882年に刊行し, この写真がどういうふうに撮られたのかを詳しく記している。
それによると、ホートンがその心霊写真を初めて目にしたのは,
1872年3月7日のことで, 彼女が夫妻を訪ねたときであった。 その写真は, 偶然に撮られたものではなく, ガピ夫妻と, いつも聴覚的に対話をしている霊の, 特別な指示に従った結果だったという。 霊は夫妻にハドソン氏の写真スタジオに行くよう指示をしたというのだった。
自らも霊媒だったホートンは, 夫妻に誘われるまま, ホドソン氏のスタジオで撮影をおこなったところ, 彼女へと手を差し伸べる, 母親の霊が写ったという。
ホートンは, 心霊写真の可能性については, マムラーよりも先に気づいていたと主張し, 著書の中で次のように記している。
(1859年12月31日)霊媒としての能力が開花して間もなく, 霊の友人たちが私にこう告げた。
『遠くない将来, 私たちの姿を写真乾板の上に現わすことが可能となるでしょう。その際は, あなたにも, お手伝いいただきますよ。』
霊による交渉というのは, 真に不思議なものであり, 限界などないはずだと考えてはいたが, こんなことを誰かに言っても, 夢のような話だと一笑に付されるだけだと思った。それで私は,
1862年12月の 『スピリッチュアル・マガジン』 にマムラーの心霊写真(同年10月5日撮影)が掲載されるまでの間, このことを誰にも打ち明けなかった。
彼女の話の真偽については, いまさら確かめようがない。
【参考文献】(下記より抜粋引用)
『写真のボーダーランド』【第2.4章/ 「メディウム」としての写真】, 著者:浜野志保, 2015年

 

Photo by フレデリック・ハドソン
(★Photo - フレデリック・ハドソン (public domain))
■サイト:「note.com」から

【参考外部】
archive.org(Chronicles Of The Photographs Of Spiritual Beings
note.com(幽霊とのツーショット:女性画家ジョージアナ・ホートン(アウトサイダーアート前史))
●獣人モモの出現
1972年7月にアメリカのミズーリ州ルイジアナに, 全身が黒い毛でおおわれ, 身長が゙2メートル以上もある怪物が現れた。この怪物はミズーリ州(ミズーリ州の略称はMo.)のモンスターということで, モモと呼ばれるようになった。

最初の出現は
7月11日で, その日の午後, リイジアナという町のマーゾルフ・ヒルという丘のふもとに住んでいるハリソン一家のテリー(8歳)が, 丘のほうで低いうなり声がしたので, その丘のほうを見ると, 異様な怪物が二本足で丘を登っていくのを目撃した。怪物は, 2メートル以上ある大きさで, カボチャのような頭をして, 全身がもじゃもじゃの黒い毛でおおわれていた。
弟テリーの悲鳴を聞いたドリス(15歳)も, 家の裏側から, その怪物を目撃している。
類人猿に似たその怪物は, 丘の頂上近くに達すると, 体をかがめ, 大きな犬のようなものを腕にかかえあげた。
そして, ぞっとするような吠え声をたてつつづけに発したと思うと, すばやい身のこなしで丘の反対側に消えていった。
その後, 父親のエドガー・ハリソンが丘の上を調べてみると, 怪物が立っていた場所は小枝が折れ, 草がふみつぶされていた。 ただ, 血痕は見つからなかったため, 怪物がかかえあげたのは犬ではなく, モモの幼獣ではなかったかとエドガーは推測している。
この後,
一週間ちょっとのあいだに, 同じような目撃が続出した。
7月14日の夜に教会に集まっていた50人ほどの人物が, 身の毛もよだつ叫び声を聞いている。 その直前に二つの光体が南の方角に出現し, 北に移動して廃校になっているリンカーン小学校の裏に落下したという目撃報告があった。
これ以降, モモとともにUFOの目撃もあいつぐようになった。 そしてモモの目撃場所も, ミズーリ州北東部だけでなく, ルイジアナ州やアーカンソー州にまで広がっていく。
現地調査を行ったUFO研究家によると, モモは全身が毛むくじゃらで, 巨大なサルに似た姿をしている。 体長は2メートルを上回っていて, 黄緑色の光る目をして, 無気味な鳴き声を発する。 また, いつも悪臭がつきまとっていて, 水中でも自在に行動ができるということである。
獣人モモのスケッチ画
(★獣人モモのスケッチ)
【参考文献】
『宇宙人の死体写真集』1989年,著者:中村省三


 

【参考外部】
chahoo(エイリアンアニマルか?未確認生物「モモ」出現!)
ATLAS(偵察UFOとエイリアンアニマル これが謎の光と鳴き声の正体か?)
gooブログ(アメリカなどではUFOの出現と同時に、毛むくじゃらの怪物が現れる、という事件がしばしば起きているからである。(1))
Yahoo知恵袋(米国のUMA(未確認生物)で謎の獣人「モモ」・・・)
す
●スカンジナヴィアに出現した謎の飛行機
スウェーデンのUFO研究家ミスター・オーケ・フランセンは, 1930年代のストックホルムの新聞にくまなく目を通し, 忘れられていた1932〜1938年のスカンジナヴィアのUFOフラップについて多くの断片をつなぎ合わせ, 90以上の詳細な報告を発掘した。

それによると,
1932年の始め, 大きな無印の飛行機がスウェーデン北部, ノルウェー, フィンランドの上空に現われ始めた。
それらはつねに, 灰色として記述されていた。 また, それらはしばしば猛吹雪のときに現われて, 町, 鉄道, 要塞, 航海中の船などの上空を旋回した。
そして, これらの飛行機は, 旋回中にエンジンを止めることが多く, その多くは巨大な多発機だった。5人の目撃者からなるあるグループは, 8つのプロペラのついた巨大な飛行機を目撃したと断言している。 また, いくつかの記事では, 3機が同時に目撃されていた。
当時, スカンジナヴィアで飛んでいる民間飛行機はほとんどなかった。 大型旅客機はまだ米国で開発中で, 出来の悪いフォードの三発機がマーケットを独占していて, 当時営業していた少数の定期航空路線に使用されていた。
これら, 謎の飛行機のほとんどは, 通常の軍用機より大きくて, 険悪な天候のもとで危険な山岳地帯の上空を飛ぶことができた。 関係している飛行機は1機や2機にとどまらないことは明らかだった。 これらの行動には, 必要な燃料や修理部品, 兵站術上の必需品を補給する機械工の配置された完全装備の基地が要求されたが, 三国(スウェーデン, ノルウェー, フィンランド)の軍隊による徹底した捜索にもかかわらず, そのような基地は発見されなかった。
1934年の正しく報告, 記述されている幽霊飛行機(謎の飛行機)目撃のすべてが地図上に描かれたとき, 彼らのルートが明らかになった。
それらは毎週, 南のほうに旋回し, スウェーデンを横断してノルウェー北部にはいり, 再び北に向かってフィンランド上空へ飛ぶという, 大きな弧を描いているように見えた。 もし, それらがそうした弧を描いていたとしたら, その円の上部は北極海のどこか, おそらく人口密度の低いスピッツバーゲン島近辺にくるはずだった。 もう一つのルートは, グリーンランド北部からやってくるものと考えられた。
【参考文献】
『UFO超地球人説』1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平


 

【参考外部】
Wikipedia(スカンディナヴィア)
●スカンジナヴィアに出現した幽霊ロケット
1946年6月10日に 「ドイツのV兵器に似た」 物体が, フィンランド上空を通過した。

幽霊ロケットの写真
サイト:「UFOの科学的研究―学術研究出版センター」から

その
2,3週間に, UFOタイプの光, 円筒状の物体, 正体不明の翼のあるマシンがノルウェーとスウェーデンのいたるところで無数の人々によって目撃された。ヨーロッパの新聞は, その事件を盛んに書きたてた。
幽霊ロケットが,
1934年の幽霊飛行機にとって代わった。それらは, はるか南のギリシャ上空で目撃され, スイスの山岳地帯で巧みに谷や峡谷を縫って飛ぶのが目撃された。
そして, それらはレーダーで追跡され, 写真にも撮られた(ストックホルムの近くで撮られた矢のような形をした光状の写真が,
1946年9月6日の 《ロンドン・モーニング・ポスト》 に掲載された)が, それらの速度は, 時速400ないし1,000マイル(1,000マイルは毎秒447m)と推定された。 これらのうちのいくつかは, 空中で爆発したように見えた。
英国やスカンジナヴィアの新聞は, 公然とソヴィエトが北ヨーロッパ上空で新しいロケット兵器のテストをしているとして非難したが, モスクワはこれを否定した。
9月に輝く緑の火の玉が, ポルトガル上空で目撃された。また, 「炎の尾をもつ空中ロケット」 がカサブランカ上空で火を吹いた。大きな光る物体がノルウェーのオスロ上空に飛び出して大音響とともに爆発した。
1946年7月3日の午後9時に, 中部スコットランドで謎の爆発が起こり, 衝撃波で窓ガラスを吹き飛ばした。一人を殺したが, その爆風の原因も説明も見つからなかった。
スウェーデン当局は, 2,000以上の幽霊ロケット報告を集めた。 このフラップはアメリカの新聞にはほとんど報道されなかったが,
1946年の夏, ジェームズ・ドーリットル将軍が調査に協力するため, ストックホルムに飛んだ。
ロンドンが誰にも説明できない一連の爆発で震撼させられた。
【参考文献】
『UFO超地球人説』1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平


幽霊ロケットとは, 1946年にスウェーデン上空で目撃された謎の物体群のこと。
スウェーデンの新聞が事件を取り上げたので, 物体群は ”幽霊ロケット” としてしられるようになる。
物体群は通常夜間に見られ, 尾部からオレンジ色の炎を放射している葉巻型物体。

7月9日から30日まで
の短い期間だけで, スウェーデン陸軍は600件以上もの報告を受け取った。そのほとんどは, 夜空を急速に動く色光体だという。
【参考文献】
『宇宙よりの来訪者』, 1977年

「ゴースト・ロケット」 が急激な方向転換を行うのは, レーダースクリーンにとらえられているが, 墜落するときは決まって湖に突っ込み爆発はしない。
そして, 軍による大がかりな捜索にも関わらず, 墜落の痕跡は何も発見されることはない。

【参考文献】
『X-ZONE(No.26)』【海底のミステリー】, 監修:コリン・ウィルソン, ブライアン・イングリス, A・J・エリソン, 1997年


 

【参考外部】
Wikipedia(スカンディナヴィア)
UFOの科学的研究―学術研究出版センター
GigaZiNE(国による調査でも何も判明しなかったUFO墜落事故「ゴーストロケット」とは?)
ぶちねこのUFO文庫(幽霊ロケット)
saturday night uforia. com (the ghost rockets of 1946)
●スコリトン・ミステリー
1965年4月24日, アーサー・ブライアントがスコリトン(Scoriton)草原でUFOから降りてきた3人の金星人と遭遇し, そのうちの1人が, 「自分はヤムスキーだ」 と言ったという事件。この日ジョージ・アダムスキーが死んだ翌日のことであった。

アーサ^・ブライアント
(★アーサー・ブライアント)
サイト:「mandegar.info」から

【前半は】
■事件詳細(サイト内)=>UFO事件集(スコリトン金星人遭遇事件)


【後半】
1965年6月7日午後10時30分, 寝室にいたアーサー・ブライアント(Arthur E. Bryant)は, だんだん強くなるブーンブーンというハミング音に気がついた。
彼は家の外へでて見ると, 南西方向から青い光体が, ふらふらとゆれながらブライアントのいる方に近づいてきた。そして, 彼のいる真上で静止した光体は, 豆粒ほどの大きさにしか見えなかったが, 不気味な音がエコーのように響きわたっていた。
ブライアントが見守るうちに, その青い光体は北東の方向に移動し, 降下しつつブライアントの視界から消えてしまった。
翌朝5時30分に起きたブライアントは, 物体が昨夜降りたと思われる場所へ, バイクを走らせた。あたりはまだ薄暗く, 曇り空だった。
しばらく走るうちに, 彼は草木が枯れているところを見つけた。そして, そこにはいくつかの奇妙な金属片が落ちていた。それらは少し輝いているように見えた。彼は, それらをカバンにつめて持ち帰った。
数日間, 彼はその周辺をくまなく探索した。すると, 銀色の砂と黄色味がかった紙片の入った小さなガラスびんを発見した。その紙片には, 古代ギリシャ文字で, "Adelphos Adelpho"(兄弟から兄弟へ) と書かれていた。さらに, ボルトやナット類, そして星のような目盛りがついたコンパス, 曲がったブレイドがついたタービンのようなものも見つけることができた。
この体験後, ブライアントは激しい頭痛と幻覚症状に悩まされたが,
2週間ほどでそれらは消えたという。
その後, ブライアントの遭遇事件は, BUFORA(英国UFO調査協会)の知るところとなった。
ブライアントから送られてきた手紙を何度も読むうちに, BUFORAのスタッフのノーマン・オリバー(Norman Oliver)とアイリーン・バックル(Eileen Buckle)は, 言い知れぬ興味をおぼえ, ブライアントを訪れた。
アイリーンは, 新聞紙に包まれ大切に保管されている, 金属片を注意深く調べた。すると, 金属片のうちの一つに, ”LONG” という文字が刻まれているのを見つけ, この金属片は円盤のものではないことを悟った。
金属片は高性能のマシーンの一部のように見え, よく研かれ, 汚れはどこにもなかった。
一方, ノーマン・オリバーは, ヤムスキーという人物にたいへん興味を示し, ヤムスキーはひょっとしてアダムスキーの生まれ変わりではないかという思いが, わきあがってきた。
そして, ブライアントにいろいろな質問をしてみた。ヤムスキーは14〜15歳にしか見えず, アメリカ語がまじった, 中部ヨーロッパ人が話しているような英語で話しながら, ときどき4本の指を前後に動かして, 語気を強めたときなどは腕をまわしたという。
またヤムスキーは, カルマの力が実際に作用したとか言っていたという。
ノーマンとアイリーンの二人は話しの合い間に, アダムスキーのイメージを織りこんで, 調査をすすめていった。そして, 次のように推論した。
「デス」 あるいは 「レス」 というのは, デスモンド・レスリー(Desmond Leslie) にちがいない。彼はアダムスキーの親友であった。また, ブライアントがみつけた金属片は, トーマス・マンテル(Thomas F. Mantell)大尉の乗った機体の残骸の一部ではあるまいか・・・
1965年4月23日, アダムスキーは死去している。ブライアントとヤムスキーのコンタクトは, アダムスキーがワシントンで死去してから, 約12時間後だった。
ブライアントはこのことを知るはずがなかったし, 自分の言っていることにウソはないと強く主張した。
ノーマンは, さらに重要な手がかりに気づいた。それは, ブライアントが宇宙船の内部で見た, バラの刺繍がついた紫色のガウンのことである。
それは明らかに, ブライアントに見せるためにおいてあったに違いない。
1962年3月27日, アダムスキーは宇宙船に同乗し, 土星に到着後, ある会議に出席したと主張している。
このとき, 全員にガウンが配られたのである。アダムスキーに与えられたガウンの袖には一輪のバラの花の刺繍がしてあったという。
このことは, わずかの人にしか知られておらず, ブライアントも知らなかったはずだ。
アダムスキーの秘書として有名なアリス・K・ウェルズ(Alice K. Wells)女史は, こう言っている。 「アダムスキーが生まれ変わるとしたら, 幼児としてではなく, 転生のときから成人者の肉体を得るであろう」
カルマの法則は, 作用したのだろうか? はたして, アダムスキーは帰ってきたのだろうか?

アーサー・ブライアントその人は,
1967年6月24日ケネス・アーノルド(Kenneth A. Arnold)が空飛ぶ円盤を目撃した日の20年後)に脳腫瘍で亡くなった。
また, これと符合するように, 2冊の有名なUFO本の著者で, UFO研究者でもあったジャーナリストのフランク・エドワーズ(Frank Allyn Edwards)が, ブライアントより
2,3時間前に, インディアナの自宅で亡くなっている。
【参考文献】
『UFOと宇宙(No.46)』, 1979年【「スコリトン・ミステリー」, 文:日高実男】
『宇宙よりの来訪者』, 1977年, 著:ロイ・ステマン
『UFO超地球人説』, 1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平

 

墜落したマンテル大尉機の破片かも?
(★金属片の一部。墜落したマンテル大尉機の破片か?)
『UFOと宇宙(No.46)』から


UFO乗員の似顔絵
(★ブライアントの証言をもとに描いた似顔絵。上からヤムスキー, 搭乗員の二人)
『UFOと宇宙(No.46)』から


【参考外部】
TOCANA(死後、地球人は異星人として生まれ変わる? UFO研究家を悩ませ続ける「スコリトン事件」)
GA Site(アダムスキーが帰ってきた?という奇妙な物語)

【関連サイト検索キー: Arthur Bryant, Scoriton, 1965 ufo
URECAT (APRIL 24, 1965, SCORITON, SOUTH DEVON, UNITED KINGDOM, ARTHUR E. BRYANT:)
Think AboutIt - REAL (1965: April UFO & Alien Sightings)
Aliens Press (The Infamous Scoriton Mystery)
Aliens Press (British Ufo Investigator Eileen Buckle)
S. H. I. E. L. D UFO Project (The Infamous Scoriton Mystery)
encyclo pedia. com(Scoriton Affair)
Chupacabra Digest(The Infamous Scoriton Mystery)
The Lord of the Harvest (CLOSE ENCOUNTERS)
All the Planets are Inhabited (Arthur Bryant)
●スチュアート・ホイットマンが聞いた不思議な声
1965年11月ニューヨーク大停電の時, ホテル内にいた映画スターのスチュアート・ホイットマンは, 円盤を目撃し不思議な声を聞いた。

この停電のあいだ, スチュアート・ホイットマン(Stuart Whitman)は, ニューヨークの最新流行のホテルの12階の自分の部屋に閉じ込められていた。
その夜, ホイットマンは窓の外でぴいぴいいっている, 「よたかのような音」 を聞いた。ホイットマンが外を見ると, 二つの光る円盤型の物体が見えた。一つは青く, もう一つはオレンジ色に光っていた。するとホイットマンの耳に, 拡声器から出てくるような声が聞こえた。
スチュアートは後に, ハリウッドのコラミニストのヴァーノン・スコットにこう語った。
「彼らは, 自分たちは地球を恐れているのだ, と言いました。人間がとんでもない無茶をしていて, 宇宙のバランスや彼らの惑星を破壊しかねないからだ, というのです・・・停電は彼らの力のちょっとしたデモンストレーションにすぎず, 自分たちは, ほとんど骨を折らずに, もっとたくさんのことができるのだ, 自分たちは全地球の機能も停止させることもできるのだ, と言いました」
ホイットマンは, 自分の話はほんとうだと主張した。
【参考文献】
『UFO超地球人説』【第11章/ きみたちは宇宙のバランスを危うくしつつある! 】1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平


 

【参考外部】
URECAT(NOVEMBER 9, 1965, NEW YORK CITY, NEW YORK, USA, STUART WHITMAN:)
PARANOIA(Strange Messages from Flying Saucers)
せ
●生者の心を読んだウィリアム・ステッドの自動書記
イギリスのジャーナリストで熱心なスピリチュアリストのウィリアム・ステッドは, 自動書記能力も持っていた。彼は, 死者ばかりでなく生者の心も自動筆記した。

1892年ウィリアム・ステッド(William Thomas Stead) は, 自分の 自動書記 能力を発見し, 故人となった米国の友人で編集者のジュリア・エイムス嬢(Miss Julia Ames)からの通信を受信した。それを編集したものとして 「Letters from Julia」(邦題:ジュリアからの便り)を発表した。
自動書記は, 通常, 故人からのメッセージを受けるものであるが, ウィリアム・ステッドは, 生きている人からのメッセージを自動筆記することもできた
あるとき彼は, 週末に旅から帰って来る女性と, 食事を共にすることを約束していた。そこで彼は, 彼女がロンドンから帰っているかどうかを思ったとき, 彼の手がひとりで動き始めたのである。
それは彼女が, 汽車で不愉快な目にあったというものだった。筆記内容によると, 彼女はコンパートメントの中で, 一人の男と同席することとなった。男は彼女のそばにやって来た。彼女はキスしようとする男を押しやった。怖くなった彼女は男ともみ合い, 男のこうもりを奪い取り, こうもりがこわれるまでたたいた。汽車が駅に止まろうとするとき, 男は飛び降り, 一目散に逃げていった。
自動筆記された内容は, 以上のようなものであった。
ステッドは, その女性のもとへ, 慰めの手紙を秘書に持たせてやった。返信には, 「このことは, 内緒にしておくつもりです。」 とあり, 「こうもりは私のものでした。」 と書き加えてあった。
自動書記といえど, すべてが真実ではない, ということか・・・。
【参考文献】(下記より抜粋引用)
『心霊の世界』【第8章/ ふるい分けられた証拠】, 著:ロイ・ステマン, 訳:楠田順, 1977年


 

●「聖ヨゼフの階段」の不思議
アメリカのサンタフェ州にあるロレッタ教会の中には, 1873年に完成した不思議な階段がある。

ロレッタ教会の中にある不思議な階段
サイト;「ソウマくん時々ワタシ」から

1873年に建設されたロレッタ教会は, 完成間近になった頃, 階段の設計と設置を忘れていたことに気づいた。
言い伝えによると,困ったシスターたちが神に祈りを捧げていると,
9日目にロバを連れた1人の老人が道具箱をもって教会を訪れ, 一夜にして美しい螺旋階段を作り上げ, 報酬も受け取らずに立ち去ったということである。
その階段は 「聖ヨゼフの階段」 と名付けられて教会のシンボルとなったが, この階段の不思議なところは, 現代の建築工学や物理学の観点からみて, 支柱のない螺旋階段は成立するはずがないということであった。
しかし, どういうわけか壊れることもなく, 宙づりの状態のまま現存しているのだ。
現代の最新技術をもってしても, 再現することが難しいと云われる 「聖ヨゼフの階段」。
それを図面もなしに, 一人の老人が,たった
一夜で作ったという, とても信じられない話である。
【参考文献】
『昭和の謎99(2018初夏の特別号)』2018年, 【絶対解決できない世界の9大不思議事件;説明がつかない聖ヨゼフの階段】


 

【参考外部】
ソウマくん時々ワタシ(らせん階段)
なんでも保管庫2(『聖ヨゼフの螺旋階段の謎』にそろそろ終止符を打とうよ)
そ
●空からの不思議な光
ハロルト・I・ヴェルトの 『古代アメリカの聖なる書』 に, J・J・コーニッシュによる報告が引用されている。

それによると,
1875年12月29日の水曜日のひどく暗い夜に, 祈祷会が終わったあと, ミセス・ジョン・ティラーとミス・サラ・リヴリーにテムズ川(カナダのオンタリオ州ロンドンにある)で洗礼を施していると, 天から美しい光がさしてきて, 昼の太陽よりも明るく, 参加していたすべての人を照らした。
それは, 激しく吹く風のような音とともにさしてきた。 その音は, はるか上のほうで聞こえたが, われわれの立っているところに達したとき, いままで見たこともないほど明るくて美しい光 -主の栄光- に包まれた。
その光は丸くて, 上から下まで真っすぐで, 天から地上までつながった一本の柱のようで, 内縁まで中央と同じくらい明るく, われわれに見えるかぎり, 外縁は1マイル(1.6km)離れたところと同じくらい暗かった。
洗礼がすんで解散したあともその光は消えなかったが, 次第に上にあがって, われわれの視界から消えていった。

ここに述べられているのは, 光束そのものの外側の部分に反射することのない, 管理され, コントロールされている電磁気エネルギーの光束のようである。
【参考文献】
『UFO超地球人説』1976年, 著:ジョン・A・キール, 訳:巻正平

 

 

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