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怪奇・不可思議事件集(か〜こ) 


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 かきくけこ
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200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
●火星上での大爆発
1949年12月9日 ,日本の著名な天文学者の佐伯常雄氏は,望遠鏡を通して火星上に異常に強力な爆発が起こったのを目撃した。

佐伯氏は
1933年から火星を研究してきた専門家だが,この不思議な爆発の後,数分にわたって”明るい光”が見られた。 それから”光った黄灰色の雲”が現われ,その”雲”の大きさは,直径1,120キロメートル,高さ64.36キロメートルと推定された。
この爆発は疑いもなく,人工的核爆発であり,水爆よりももっと強力なもので,高度に進んだ文明をもつ生物が爆発させたとしか考えられないと佐伯氏は述べている。

大阪天文台の観測では,
1937年から1954年までのあいだに,4回にわたって火星表面に”明るい光”が輝くのを目撃している。 これらが火山爆発の可能性であることは否定できる。なぜなら,この光は火山活動には見られない,もっと強く明るい光だったからである。最初と2回目の爆発では,光がそれぞれ300秒間にわたって目撃され,3,4回目の爆発では,5秒間にわたった。

アレクサンドル・カザンツェフは,その論文『宇宙からの訪問者』で,
1956年の地球と火星の大接近の後,プルコボ天文台長のA・A・ミハイロフは,プルコボ天文台が,火星上に巨大な力の爆発が起こったのを観測したことを報告したと述べている。
【参考文献】
『謎の白鳥座61番星』,1975年,著:ロビン・コリンズ,訳:青木榮一
参考外部サイト=>オカルトNEWS★かすぽ(火星で核爆発か?「キノコ雲」が撮影される)

参考外部サイト=>地球なんでも鑑定団(インドの火星探査機で撮影された核爆発の巨大雲)

参考外部サイト=>InDeep(木星で起きた「周辺数千キロに影響が及ぶほど」の謎の大爆発。これが小惑星など天体の衝突だった場合、太陽系の「状態の変化」の幕開けになっている可能性もあるのかも)
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●機能を復帰させた人工衛星 1960年代,アメリカの打ち上げた人工衛星のいくつかが, 突然機能を停止したが,その後,奇妙にも機能が復帰した。

この奇妙な問題に対する,最初の公式的承認は,
1963年8月下旬に,断片的な形で外部に漏れた。
何が起きたのかを率直に包み隠さず描写した発表ではなかったために,新聞記者は,根気強く調査して記事を書き上げねばならなかった。
以下は,その報告によるものである。
●測地用球状衛星アンナの場合
アンナは,
1962年10月に軌道に乗った。この衛星は,地球の正確な大きさと形をさらに精密に算出できるよう,星々を背景にして撮影するための4個の明るい明滅灯(フラッシングライト)を備えていた。”ホタル”衛星の名でも知られるこの衛星は,2カ月間追跡され撮影され続けたが,全く思いがけないことに,突然機能を停止した。
壊れて使いものにならなくなったと信じた空軍は,この衛星の関連作業を放棄し,技術者たちは別の任務に赴いた。
ところが,
1963年8月,7カ月にわたる中断の後,アンナは突然活動を再開したのである。空軍の技術者たちは,同衛星の仕事を再開することになった。
●テルスター2号の場合
テルスター2号は,
1963年5月7日,打ち上げられた。当社は完全に機能していたが,1963年7月16日,信号が突然途絶えた。以来8月12日まで活動を中止していたが,この日から再び息を吹き返したのである。
これらの衛星は,突然機能を停止し,その後で不可解にも,送信を止めたのと同じぐらい唐突に,任務に再度復帰したのである。
【参考文献】
『空飛ぶ円盤の真実』【第8章/宇宙への競争】1988年,著:フランク・エドワーズ,訳:安龍次郎
参考外部サイト=>コトバンク(測地衛星)
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●雲に消えたイギリス兵


★雲の中に消えたノーフォーク連隊
サイト;『ナゾカレンダー』から
1915年 ,イギリス軍の一個連隊数百人が,奇妙な青白い雲のかかった場所を過ぎようとしたが, その雲を抜けて出てきた隊員は一人もいなかった。

トルコでダーダネルス作戦(
ガリポリの戦い )が行われていた最中に,この不思議な事件は起こった。 信じられぬ出来事だが,何人かの目撃者により確認されている。
場所はガリポリ半島沿いのサブラ湾南側を内陸にはいったカイアジク・アガーラの近くであった。
イギリス軍の一個連隊数百人が,奇妙な青白い”雲”がかかった場所を過ぎようとした。 その奇妙な”雲”は,目撃者によればカイアジク・デレ(地面の陥没地)の上をすっぽり覆っているように見えた。 そして,その”雲”を抜けて出てきた隊員は一人もいなかったという。
”雲”は,
1時間ほど たって地面を離れた。 約1.2キロ上空に同じような”雲”が6個から8個くらいが浮かんでいた。 地面から上昇した”雲”が上空の”雲”に合流するのを待って,その奇妙な雲の一団は,東欧のブルガリアの方向に移動していったという。
”雲”は,どれも細長い恰好だった。地上に降りていた雲は,長さ約241メートル,高さと幅がそれぞれ約60メートルで,外見は”きめがこまかく”, ”固い”感じがした。
この事件の目撃者は,オーストラリア・ニュージーランド連合部隊の工兵であったF・レイチャートとR・ニューンズ,J・L・ニューマンの3人である。
レイチャートの話では,
1918年 にトルコが降伏したとき,イギリスは行方不明の一個連隊の隊員の釈放を要求したが, 「トルコは,この連隊を捕虜にしたことはもちろん,接触した事実もないので,連隊が存在したことも知らなかった,と回答した」という。
【参考文献】
『謎の白鳥座61番星』,1975年,著:ロビン・コリンズ,訳:青木榮一
ガリポリの戦い;(外部)->世界史の窓(ガリポリの戦い)


参考外部サイト=>Unbroken Snow(ノーフォーク連隊集団失踪事件(1915))

参考外部サイト=>ナゾカレンダー(第1次世界大戦中に起きた「ノーフォーク連隊集団失踪事件」の真相が判明!?〜奇妙な”灰色の雲”の中に消えた彼らの消息とは?)

参考外部サイト=>都市伝説をまとめてイッキ読み(ノーフォーク連隊失踪事件!341人が雲の中に消えた最大の神隠し事件!)

参考外部サイト=>excite(不可思議な霧や雲が現れて、突如消息を絶った奇妙な10の失踪事件)
●黒いキャディラックにまつわる無気味な話
性格俳優であるテリー・サバラスが,若い頃体験した黒いキャディラックにまつわる無気味な話。











【参考文献】
『失われた惑星文明』【第2部/疑似人類の暗躍】,1975年,著:ジョン・A・キール,訳:北村十四彦
参考外部サイト=>Wikipedia(テリー・サバラス)

参考外部サイト=>








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200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
●ケネディ大統領の暗殺を夢で見た少年
1963年11月22日 に起こったケネディ大統領の暗殺を,事前に夢で見ていた少年がいた。

ケネディ大統領は,
1963年11月22日金曜日,現地時間12時30分にテキサス州ダラス市内で遊説中に銃撃され暗殺された。
後になって,このケネディ大統領の死は,相当多くの人に予知されていたことが判った。その中の一つの話である。
オハイオ州コロンバスの町の病院に,リッキイ・マクドウェルという8歳の少年が,白血球過多症で入院していた。リッキイは,
11月20日以来,半ば昏睡状態に陥っていた。
22日の朝7時,リッキイはふと眼を覚まし,ベッドそばにいる母親に,大統領が死ぬところをいま夢に見たことを話した。
リッキイは,
2時間ほど眼を開けていたが,やがてまた昏睡に陥った。そして,そのまま二度と眼を覚ますことはなく,12月28日に亡くなった。
【参考文献】
『予言と怪異物語』,1964年,著:黒沼健
参考外部サイト=>Wikipedia(ケネディ大統領暗殺事件)
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●黒衣の男たちの出現

黒衣の男
ベンダーの前に現れたMIB
『UFO最後の真実』から
UFOの目撃者や調査員の前に,ふと現われる奇妙な三人連れの紳士がいる。

この紳士たちは,たいていの場合,東洋人的風貌をして,地味な黒っぽい衣服を身につけている。
空飛ぶ円盤を見に行って,途中で黒衣の男たちに会ったことのある人は,てっきりCIAの秘密工作員がいやがらせに来たのだと,みな信じていた。
この, 「黒衣の男たち」(MIB)があらわれるときは,たいてい黒塗りの大型車,特にキャデラックに乗っていて,UFOを追いかけるアマチュアたちを混乱させる。 この奇妙な3人連れは,ここで見たことをひとに話さぬほうがよい,と警告し,ときには脅迫したという。
そして,この3人は,車ごと妙なぐあいに消え去ってしまうのだ。初めそれを聞いた人は信用せず,嘘をいっているか幻覚を見たかしたのだろうと相手にしなかった。 ところが,同じような事件の数は次第にふえる一方で,懐疑的だった調査員たち自身が「黒衣の男たち」と遭遇する羽目になって震えあがった。
UFO調査員が急死したり,自殺したり,神経衰弱になったりした例は,おびただしい数にのぼっていたのだ。
【参考文献】
『失われた惑星文明』【第2部/疑似人類の暗躍】,1975年,著:ジョン・A・キール,訳:北村十四彦
参考外部サイト=>Wikipedia(メン・イン・ブラック)

参考外部サイト=>GAsite(第6章 異星人は我々のなかにいる! 第2話 宇宙よりの来訪者)


参考外部サイト=>TOCANA(不気味な「黒づくめの集団(MIB)」が米国の道路に頻出! 警察「本気で調査する」
●コティングリーの妖精 1917年夏,イギリスのヨークシャー州のコティングリーで,少女たちが戸外で撮った写真に,それまでに記録されたことのない生物が写っていた。 いわゆる妖精たちであった。

7月のよく晴れた日にエルシーが撮影した最初の写真は,「フランシスと妖精たち」という題が付されている。写真には翼のある生物が5人見える。1人は2人の陰にほとんどかくれている。
9月フランシスが撮った2枚目の写真は「エルシーと地の精」という名で知られるものであるが,写っているのは,とがった帽子をかぶり,ひだえりのある服を着て2本の管楽器のようなものを持ったもので,想像できる最も奇妙な妖精といわれるものである。
このコティングリーの写真は,当時最も学識もあり尊敬を受けていた人物の一人である,サー・アーサー・コナン・ドイルによって徹底的に調査された。彼は,あらゆる可能性を注意深く考え,インチキではないことを確信し,妖精の存在を証明する1冊の本を書いた(『妖精の出現』(
1922年))。
ドイルが,写真の信憑性を確信するようになったのは,次のような理由によるものである。
●彼女たちがカメラについて知っていたのは,シャッターの押し方だけだった。純真で親切な少女たち(10歳と16歳)が人をだますのは,不得手であること。
●写真は英国コダック社の研究室にも送られ,数人のベテラン写真家の手で徹底的に調査されたこと。熟練した写真家で,適当な設備があれば同じような写真を作り上げることができることを指摘したが,少女たちは,そのような設備を持っていず,持っていたとしても使い方を知らないだろう。
●長年の経験を積み特殊撮影技術にも精通している商業写真家のH・スネリング氏も,「スタジオで手を加えた形跡は全くない・・・修正されないままの写真である」と言い,この写真がインチキでないことを証明するためには自分の今までの名声をかけてもよい,とまで断言している。
【参考文献】
『UFOと宇宙(No.33)』,1978年,【第一次大戦中に撮影された翼のある宇宙人,文:ロバート・シェーファー,訳:増野一郎】


●「コティングリー妖精事件」とは−
コティングリー(Cottingley)は,イギリスの北部ヨークシャーの小さい町である。ここに住むライト家の娘であったエルシー・ライト(当時16歳)と従妹のフランシィス・グリフィス(当時10歳)が,林から家の裏庭を流れる小川(この地方ではベックと呼ぶ)の堤で撮った写真のまわりに,ダンスをする妖精や膝にのってくるノームなどの妖精たちが写っていた。その写真は,「本物か拵(こしら)え物か」をめぐり,1917年から約66年間,人々のあいだで様々に論争されたのが「コティングリー妖精事件」である。
はじまり
1917年7月のある土曜日の午後に,エルシーは父親のアーサー・ライトに写真機を貸してくれるように頼んだ。ついひと月前に買ったばかりの写真機であり,ガラスの感光板はなかなか手に入れることができなかったので,アーサーはそれを渋ったが,結局は娘に貸すことになる。アーサーが,小さなファインダーの使い方やガラスの感光板の取り付け方などを教えると,エルシーはフランシスを連れて生まれて初めての写真を撮りに飛び出していった。
二人は30分ほどで戻ってきて,しきりに感光板の現像をせがんだ。アーサー家には間に合わせの暗室があり,そこには写真の現像に必要な材料もすべて揃えてあった(写真技術が一般大衆に知られて間もないころだった)。
アーサーが現像に取りかかったのは,午後のお茶の時間も終わってからのことで,エルシーは小さな暗室に父を押し込むようにして入り,フランシスは部屋の外でドアに耳を押し当てて中の話し声に聞き入っていた。
感光板を動かしていると,まずフランシスの顔が現われた。うまい具合に片肘を土手につき,カメラを見つめている。次に,そのまわりにサンドイッチの包み紙のように見えるものが現われた。アーサーが川のほとりを散らかしてはだめだと叱ろうとしたそのとき,羽が現われ,アーサーは鳥が写っているのかと思った。つづいて小さな足と手が出てくると,彼は茫然として黙り込んでしまった。
エルシーは,「妖精が写っているわ!」と大声でドアの向こうのフランシスに叫ぶと,かん高い喜びの声をあげた。
しばらくして,セピア色の写真が出来上がると,もっと細かい部分も見えてきた。何食わぬ様子のフランシスの前で5つの姿が踊っているように見える。背景には滝があり,キノコも写っていた。

(★エルシーが撮影した最初の写真。上がオリジナル。下は修正されて,1920年の『ストランド』誌に掲載されたもの)
9月に,アーサーの写真機は再び借り出され,今度はフランシスが小川の北側の岸辺の樫の古木の前で,エルシーの写真を撮った。露出過多の感光板から現れたセピア色の写真には,こともあろうにノームが写っており,これにはアーサーも仰天してしまった。

(★フランシスが撮影したエルシーとノーム。奇妙に細長く伸びたエルシーの手の指に関し,納得のいく説明はない)
エルシーの手と指は奇妙に長く伸びていた。それは自分が初めて写真を撮ったので,きっと写真機の構え方のせいだとフランシスは伯父に説明した。あの場所にはよくノームが現われるのだと二人は口をそろえて断言した。
その後,アーサーは娘たちに二度と写真機を貸さないようになった。小川のほとりには本当に妖精がいて,それが写真に写っているのだと言い張るエルシーとフランシスは,家族や友人のあいだではちょっと変わり者だと思われるようになっていった。
●ガードナーとドイル
ライト家の机の引き出しの奥にしまい込まれ,何かの冗談として忘れられていたガラスの感光板とセピア色の写真は,その後,エルシーの母親ポリーが,神智学の講演会で,子供が撮った写真が本物かどうかを講師に訪ねたことから,1919年神智学協会エドワード・L・ガードナーが知るところとなる。
ガードナーは,当時写真家として開業したハロルド・スネリングを訪ね,セピア写真とそのもとになった感光板を渡してトリックのないことを調べさせたりもした。
そんなわけで5月には,ガードナーはかなりの確信をもって,二枚の写真のスライドを公開している。
そのころ『ストランド』誌の編集長に,妖精に関する記事を書いてほしいと頼まれていたアーサー・コナン・ドイルは,この妖精写真について詳しく調べ始め,最終的に,エドワード・L・ガードナーに辿り着き,1920年6月に二枚の写真を手にすることになる。
●3枚の妖精写真
仕事が多忙だったドイルは,ガードーナーに調査を依頼し,ガードナーは,コティングリーに何度も足を運び,二人の少女やその家族に会い話を聞いている。また,ガードナーは,もっと妖精の写真を手に入れるために,二人に性能のよいカメラとたくさんの感光板を支給した。少女たちは,そのカメラで,さらに三枚の妖精写真の撮影に成功する。

(★「フランシスと飛び跳ねる妖精」,エルシーが1920年8月19日撮影)

(★「エルシーにヘアーベルの花を差し出す妖精」,フランシスが1920年8月19日撮影。上の写真と同じ日に撮影された)

(★「妖精の日光浴」または「妖精の繭の家」,1920年8月21日午後撮影。撮影者がエルシーかフランシスかは不明。エルシーは,自分だけで撮ったと主張(1983年)しているが,フランシスはエルシーの助けを借りて自分が撮ったと主張している)
●『ストランド』誌への掲載
1920年11月末に発売された『ストランド(クリスマス特集号)』の誌上に,コナン・ドイルが書いた記事「写真に撮られた妖精たち」についての小論が掲載され,たくさんの人たちが知るところとなる。
ドイルが,この記事を書いた時点では,残りの3枚の写真については知らされていなかった。この3枚の写真を含めた見解で書いた本が,『妖精の出現』(1922年刊)である。
これらのことを疑う人たちは,厚紙を切り抜いた妖精だと一笑に付した。ドイルやガードナー,それを信ずる人たちは,「自然の精霊」が存在するとして弁護し,妖精の写真は本物であることを説明した。
●その後
1921年を境に,精霊についての報告はコティングリー村からいっさい届かなくなる。 そして1930年代には,コティングリーの妖精は,誰からも顧みられなくなっていた。
エルシーはヨークシャーからアメリカ大陸に渡り,技師のフランク・ヒルと出会い結婚し,インドに移住し,その後イギリスに帰国した。
フランシスは,シドニー・ウェイという軍人と結婚し,夫が退役後に,イングランドの中部地方で暮らした。
エルシーとフランシスのもうけた子供たちは,それぞれが成功をおさめて,幸福な結婚をした。すばらしい子供にも恵まれている。
エドワード・ガードナーは,イギリス各地で数多くの講演旅行を終えると,神智学協会での地位も上がって,もっとも栄誉ある会員の一人となった。1945年に70歳を超えたガードナーは,コティングリー妖精に関する本を出すが,ドイルの記述に新たな要素を加えることはほとんどなかった。
●真相
1960年代に入ると,事件はもう永久に葬り去られてしまったかのように見えた。しかし,1965年,ある新聞社がエルシーの住所をつきとめ,5月の『ディリー・エキスプレス』紙に,記者ピーター・チェンバース(当時60代)の記事が載った。チェンバースは,あの事件には何らかのトリックが使われていると感じていた。記事には次のような彼女の言葉が引用された。「あの写真については,フランシスと私の想像力から生まれた作り物といっておきましょう。それで勘弁してください」。これは,1970年代に様々なメディア関係者からインタビューを受けた彼女が,繰り返し述べた言葉である。
1971年,BBCテレビ番組『ネイションワイド』は,妖精の物語を復活させた。プロデューサーのリン・ルイスは,エルシー(当時70歳)のインタビューを彼女の自宅で行い,フランシスのインタビューは,彼女が寮母をしていたエプソム大学で行った。ルイスはコダック社におもむき,最初の2枚の写真には人形かモデルが使われており,後の3枚は二重撮りされているのではとの情報を得ている。しかし,肝心な質問に対して,二人は穏やかに話をそらしたのであった。
この番組を見ていたフォークロア学会(イギリス民族学研究会)の役員であり妖精の生態学の学者,スチュアート・サンダーソン教授は,エルシーが言葉をにごすのに気づき,偽造写真の疑いを証明する鍵を握っていると考えた。そして1973年3月,年次の講演で『コティングリー妖精事件』を取り上げ,写真が偽造であると推測されることのいくつかの問題点を提示した。
1976年にYTV(ヨークシャー・テレビ局)の15分番組でコティングリー妖精事件についての最新情報が紹介された。これを機会に二人が一緒にコティングリーに戻るのは,二十代のとき以来初めてであった。
1978年8月10日付けの『ニュー・サイエンティスト』誌に,ジェームズ・ランディ(アメリカの奇術師)が明らかにしたコテングリー妖精写真の暴露記事が掲載された。CSICOP(サイコップ−超常現象の科学的調査のための委員会)によるコンピュータの画像処理を利用して,問題の写真の画質を高めるというもので,同委員会のロバート・シーファー氏,その同僚のウィリアム・スポールディング氏がその技術を妖精写真に適用した。そして,妖精を支えている紐など,偽造の証拠がいくつも発見された(しかし,ヘアーベルの花をエルシーに差し出している妖精と空のあいだに見える筋が紐であるという指摘は間違っている)というものである。
また,ランディはフレッド・ゲティングズ(イギリスの美術史家)が,1914年に発行した『メアリー王女のギフトブック』の104ページに載っているノイズの妖精の詩の挿絵が,問題の1枚目の写真に写っている妖精と酷似していることを見つけたことを指摘した。

(★「メアリー王女のギフトブック」中のノイズの詩の挿絵「踊る妖精」。フランシスはこの本を1917年アフリカからライト家に持ってきた)
1978年10月に,ジェフリー・ケイスの脚本,アン・ヘッドのプロデュースでBBC2の"今週のドラマ”『妖精』が放送された。このドラマに興味を募らせたフランシスは,ドラマの制作中にフランシスの当時の体験談などをアン・ヘッドに提供した。
1980年,ジェームズ・ランディは「コティングリー妖精事件」に最終結論を出す本を出版し,写真はエルシーが何かの挿絵を,あるいはその一部を写し取ったものを切り抜き,それに羽根を付けたものだという見解を述べた。
1981年にエルシー(当時80歳)は,息子グレンに妖精写真について告白するよう説得された。フランシス(当時74歳)もジョー・クーパーに写真が偽造であることを語った。写真に写った妖精は,エルシーが『メアリー王女のギフトブック』の挿絵を模写したものであったという。
1982年12月発行の『アンエクスプレインド』誌に,ジョー・クーパーの「コティングリー−ついに真相が」が掲載されたことで,まずフランシスが1983年4月9日付けの『タイムズ』紙で真相を告白した(だが,フランシスが最後に撮った写真だけは本物であると主張している)。
エルシーは,この記事に対するコメントを断っていたが,そのうちに記者やカメラマンが自分の家にくるのを許した。そこで,エルシーはボール紙から妖精の姿を切り抜くさまを写真に撮らせたのである。
『英国写真ジャーナル』の編集長ジェフリー・クローリーは,1982年12月から1983年4月にかけて,この自分の雑誌に,「コティングリー妖精に関する驚くべき事件」について10編の記事を書いた。これらの中でクローリーは,エルシーとフランシスが使用したカメラや,二人がその後に撮った写真,二人の経歴や冒険談をすべて事細かに検討している。
また,クローリーは1983年4月9日付け『タイムズ』紙上で,問題になっている最後の写真について,二重撮りであることが推測されることを述べている。また,なぜコナン・ドイルが亡くなったあと,この事件の調査が引き継がれ行なわれなかったかの理由として,コティングリーの資料が,エドワード・ガードナー氏によって閉ざされていたことを述べた。
1985年5月のアーサー・C・クラーク(イギルス出身のSF作家)のITVのテレビ番組が放送されたが,この謎がどうやって解決されたかについて科学的観点を導入して,たどろうとしたものだった。
●疑問?
しかし,それでもいくつかの疑問が残る。エルシーとフランシスは,本当にコティングリーで妖精を見たのだろうか?
フランシスが娘の家で亡くなった後の1986年7月にフランシスの娘は,「妖精は本当にいたんです。母は話の内容を頑として変えようとしませんでした」と言い,フランシスは最後までその意見を通したことを述べている。
また,晩年エルシーが妖精を放棄したのは,疲れ,病気がちな老婦人がこれ以上記者たちを寄せつけないために考え出した計略ではなかったのか。
【参考文献】
『コティングリー妖精事件』,1999年,著:ジョー・クーパー,訳:井村君江
参考外部サイト=>Wikipedia(コティングリー妖精事件)

参考外部サイト=>Wikipedia(ノーム (妖精))

参考外部サイト=>世界の妖精博物誌(コティングリー妖精事件)

参考外部サイト=>ナゾカレンダー(最後の一枚は本物だったのか?〜コティングリー妖精事件が嘘と判明した日)

参考外部サイト=>世界の未解決事件(2人の少女が見た妖精の真実とは?〜コティングリー妖精事件〜)

参考外部サイト=>なんでも保管庫2(コティングリー妖精写真の謎を追う!)

参考外部サイト=>都市伝説をまとめてイッキ読み!(コティングリー妖精事件!妖精と共に映る少女の写真!真相と真実とは!)

参考外部サイト=>スチームパンク大百科(心霊研究家コナン・ドイルが巻き込まれたコティングリー妖精事件とは?)


参考外部サイト=>みどりの瞑想ブログ(コティングリー妖精事件の最後の一枚とは!!)
●小人宇宙人目撃事件


1989年に開かれた「モスクワ・UFO展覧会」での作品;画:ビクトル・コロリョフ)
『モスクワ上空の怪奇現象』から
1965年8月の夜 ,ワシントン州シアトルに住む若い女性が,窓から寝室に侵入してきたフットボールぐらいの小型UFOに遭遇し, なかから出てきた5,6人の小人を目撃した。

この報告は,ジョン・A・キールが受け取ったUFO情報のなかでは異端のものである。
1965年8月の後半,彼女は 午前2時 に目をさました。その時,彼女は自分のからだを動かしたり声を出したりすることができなくなっていることに気づいた。 寝室の窓が開いていて,突然,小さいフットボールぐらいの大きさのくすんだ灰色の物体が現われた。 それは,漂いながら窓からはいってきて,彼女のベッドに近いカーペットの上の宙を舞った。 その物体から3本の脚が降りてきてフロアに定着した。 小さなタラップが降ろされ,5,6人の小人たちが出てきた。 小人たちは,からだにぴったりの服を着ており,その物体の修理に取りかかかっているように見えた。 小人たちは,仕事が終わると,再びタラップをのぼり,物体の中に姿を消し,物体は,離陸し窓の外に飛び去っていった。
そのとき,ようやく彼女は身動きできるようになった。 彼女は,確かに完全に目をさましていたという。 また,からだを動かすことができなかったあいだに,声をあげたり,驚いて跳び上がったりしたいとは思わなかったという。
【参考文献】
『UFO超地球人説』,1976年,著:ジョン・A・キール,訳:巻正平

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