UFOレガシーUFO・ミステリー事件遺産 当サイトで参考にしたUFO関連本一覧
出典ライブラリー

怪奇・不可思議事件集(あ〜お) 


あ〜お か〜こ さ〜そ た〜と な〜の は〜ほ ま〜も や〜よ 怪奇事件TOP
ら〜ろ わ〜ん A〜Z 0〜9 「怪奇・不可思議事件」索引欄
あ〜お
あ いうえお
あ
200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
い
200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
う
200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
●雲塊どおしの激突 1874年7月28日,アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグ(Pittsburgh)に近いミル河(Mill Creek)付近の上空で,不気味な二個の雲塊が激突して,付近の住民を驚かせた。

この日の午後,周囲に赤い帯をまきつけているように見える,まっ黒な雲のかたまりが東西の空に突然あらわれた。
一方は北東の地平線から,もう一方は西南のほうから,風にさからい同じ高度を見る見るうちに接近した。
やがて,二つの雲のあいだに激しい争いにも似た,稲妻の応酬があった。その衝撃で大地はビリビリと振動した。
まもなく,両者は真正面から激突した。天が爆発したかと思われるような,すざましい光景が
30秒ほどつづいた。そして,稲妻と轟音が静まったとき,豪雨が降り注ぎはじめた。
それは,まるで天の底が抜けたかのようなものすごいものであった。
数十分の土砂降りでミル河はたちまちあふれかえった。
堤防がきれ,濁水は家や家畜を押し流し,数百名の人名をうばった。
当地の人々は,「あれは雲ではない。悪魔どおしの闘いだったにちがいない」とうわさしあった。
【参考文献】
『世界の奇跡』【世にもふしぎな物語;天の異変】1964年,著者:庄司浅水
え
200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
お
200-20 事件名 470-55 事件の概要および詳細 230-25 その他参考サイトなど
●遅れて届いたTV電波


(★KLEEテレビ局のテストパターン映像)
サイト:「Snopes」から
すでに消滅し放送されていないはずのTV電波が,3年後の1953年にキャッチされた事件(「クリーTV局」受像事件)。

放送関係者も首をひねる,この不可解なミステリーは,
1953年の夏から翌年の冬にかけて,一度ならずも何度も繰り返し発生した。
受像されたのは,アメリカのテキサス州ヒューストンのクリーTV局(KLEE-TV)のテスト・パターン画像だが,それがヒューストンの近辺ではなく,遠く離れた南部イギリスでキャッチされたのだ。
アメリカのTV電波が,イギリスのブラウン管に映ったというTV電波の異常長距離伝播。それだけでも素人にとっては興味深いため, アメリカのクリーTV局には問い合わせの手紙が殺到した。 ところが,驚いたのはアメリカのTV局関係者の方であった。 なぜなら,クリーTV局は,その
3〜4年前に局名が変わり,KPRC-TVとなり,それ以来,旧名クリーのテスト・パターンは一度も使用していなかったからだ。
長距離の異常伝播というなら,ごく稀にだが,あり得ないことではない。 しかし,
何年も前に廃止された局名が受像されたとなると,これはもう”幽霊電波”以外のなにものでもない。
KPRC-TV局のポール・ヒューンドルフ主任技師の報告によると,この幽霊電波がキャッチされたのは,イギリスのロンドン周辺と,アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーの近辺に集中している。 とくにロンドンでは,
1953年9月14日から1954年1月8日までの間に何度も受像され,証拠の写真を撮る余裕さえあった。
それのみではなく,
2年後の1955年11月23日になってもなお,イギリスのランカシャー州モーカム(Morecambe)でキャッチされた。 この時,それを受像したのは長距離のTV電波受像を研究している電子専門家のH・ティラー技師であった。
イギリスのTV受像機に映った,そのテスト・パターンの証拠写真を,KPRC-TVのヒュートンドルフ主任技師は慎重にチェックしてみたが, 間違いなくクリー局のものであり,どこから,その原文字板を手に入れたのか,まったく見当がつかないという。
当時,ビデオ装置は開発研究中であったし,原文字板を偽造するとしても,それを放送する装置は,10万ドル以上に達したはずで,むろん違法である。
1960年になって,アメリカの「ヒューストン・ポスト」紙は,「この事件はイギリスのある老発明狂のしわざであり,テスト・パターンのカードのコピーを再放送したに過ぎない」と報じたが,この記事自体もまた曖昧なところがあった。老発明狂についての名前,住所さえ明記されていなかった。
【参考文献】
『UFOと宇宙(NO.31)』1978年, 【星からの無人ロボット船-その待機軌道をさがせ,文:斎藤守弘


1953年9月14日から同17日までの3日間,イギリス諸島の多くのテレビ・スクリーンにアメリカのKLEE-TV放送局のテストパターンとコールサインが登場して,視聴者たちを驚かせた。
彼らがチャンネルを合わせていた地元局の電波は,強引なその信号に打ち消されたらしい。
数分後(3,4分後)にその映像は消え,地元局の放送が再び見えるようになったのである。
KLEE-TVはアメリカのテキサス州ヒューストンの放送局で,よほど特殊な状況がなければ,これほどの遠く(イギリス)でテレビ電波が受信されることはない。 それに,KLEE-TVは
3年前に放送を止めて消滅していたのだ。 KLEE-TVの後継局からは,1950年にその放送局が消滅後,いかなる種類のKLEE-TVの信号もテストパターンも放送していないことを知らせてきた。
この事件は,国際的な注目と全世界的な関心を呼んだ。大衆の心の中で記憶が薄れかけてきた
1959年になって,一つの”説明”が提出された。 提出したのは,イギリスの調査者たちではなく,アメリカの<オズマ計画>のスタッフで,1959年当時は宇宙からの奇妙な信号を受けとるべき,その電子装置をフル稼働させていた。
その”説明”とは,謎の発明家が仕組んだイタズラだったというものだった。だが,その発明家なる人物の身元は分からないし,イギリスの放送規則に対してこうした目に余る違反行為をしても,告発もされなければ起訴もされなかった。 その上,今日まで他のテレビ放送局ができないこと,すなわち,イギリス諸島全域を一局で電波妨害してのけたその方法も,ついに明らかにされることはなかったのだ。

【参考文献】
『空飛ぶ円盤の真実』【第6章/宇宙の彼方の生命】1988年,著者:フランク・エドワーズ,訳者:安龍次郎


ここで見落とされやすい重要な点は,イギリスではアメリカと異なるテレビ電波,中継方法を採用しているということだ。
つまり,イギリスの2チャンネルはアメリカの2チャンネルとは違うし,アメリカのテレビ電波はイギリスのテレビには映らないのだ。
したがって,この中継放送を行った者は,電波を変換する能力をもっていた。そればかりでなく,両者の違いを知っていた,ということになる。

【参考文献】
『UFOと宇宙(NO.27)』【宇宙から来た人工衛星】,文:ハリー・ヘルムス・ジュニア,訳:矢沢潔,1977年
参考外部サイト=>Snopes(KLEE Station Identification)

参考外部サイト=>HistorysDumpster(The Legend Of KLEE-TV)

参考外部サイト=>Wikipedia(英語版:KPRC-TV)

参考外部サイト=>Wikipedia(オズマ計画)
●オーロラ・ミステリー


(★オーロラ事件の載った『ダラス・モーニング・ニュース』の3日前の4月16日号に載った,テキサス州ウェザーフォードで目撃された飛行船)
『謎解き超常現象W』から
オーロラ・ミステリーとは,1897年4月の早朝,テキサス州の小さな町オーロラ(ダラス・フォートワースから50キロほど北西にあたるワイズ郡のなかにある)に住む プロクター判事の家の風車に1機の飛行船が衝突し墜落した事件。 ひとりの乗員のばらばらになった遺骸が発見され,キリスト教の儀式にのっとって共同墓地に埋葬されたという。

墜落した飛行船は,プロクター判事の風車小屋の塔に激突し,判事の庭をめちゃくちゃにしてしまった。 残骸は数エーカー(1エーカーは約4000平方m)にわたって飛び散った。
このオーロラ・ミステリーは,「墜落円盤」ストーリーとして最初に話題になったものといえる。
ところで,「謎の飛行船」が全米を騒がせるようになったのは, その
5か月ばかり前からのことである。 イリノイ,アイオワ,ウィスコンシン,インディアナの諸州の上空に出現した謎の飛行船は,1897年4月14日 になって,ついにテキサスに侵入してきた。 まず,デイトン,数日のうちにウェザーフォード,コルシカーナ,フォートワースなどに出現した。
当時,飛行船はヨーロッパでやっとお目見えしたばかり(飛行船のパイオニア参照)で, アメリカではまだ開発段階にあった。 ところが,「謎の飛行船」は,この時期,アメリカ各地を我がもの顔に飛び回った。
このオーロラ事件を報じたのは,テキサス州ワイズ郡オーロラ発として『ダラス・モーニング・ニュース』(
4月19日号)一紙だけであった。
すぐに,アメリカとキューバの紛争,ギリシアとトルコ間での戦争などが勃発したことや,その他多数の飛行船目撃報道などに埋もれ, このオーロラ事件は数週間もしないうちに完全に忘れ去られてしまった。
約70年経過した1966年になって,イギリスのUFO雑誌がオーロラの飛行船墜落事件の噂を聞いて, 取材記者をオーロラに派遣した。
それから,
7年後1973年,オクラホマシティに本部のあるUFO研究団体が調査チームをオーロラに送り込んだ。 さらに,ドナルド・キーホー退役海兵隊少佐率いる研究団体NICAP(全米空中現象調査員会)もこの調査に加わった。 キーホー少佐は当時,UFO宇宙船説の権威として知られていたため,あっという間にオーロラはマスコミの話題の中心となり, この地に新聞記者やテレビの報道陣,UFO研究家,野次馬がどっと押し寄せた。
そして,いくつかの事実が掘り起こされた。まず,『ダラス・モーニング・ニュース』に問題の新聞記事を執筆したS・E・ヘイドンは,F・E・ヘイドンという名前の人物で, 地元では有名な綿の仲買人だったことや,地所の所有者だとされるプロクター判事についても,軽犯罪を担当する無給の治安判事でしかなかったことなどが判明した。
こうしたことから,すべてはヘイドンによるジョークにすぎなかったのではないかという疑いが濃くなった。
1973年に行ったUFO研究団体の調査結果は,この仮説を支持しているように思われた。 また,この調査チームは,記事の中で飛行船の墜落現場だとされている場所を簡単に見つけだすことができたが,その場所は人手に渡り,ニワトリ小屋が建てられていた。 また,プロクター判事の地所には風車小屋はなく,飛行船は井戸の上に作られていた木造の井戸水の巻き上げ機に激突したというのが正しいようだと判断した。
しかし,調査チームを悩ませたのは,古くからの住民たちが口を揃えて証言しているように, プロクター判事の庭だった場所には草木がまったく育たないという事実だった。 土壌を分析してみても養分に富んでいたのだ。
また,金属探知機の調査からだと,まるで爆発で飛び散ったかのようなギザギザになった小さな金属片がいくつも見つかった。 しかも,この奇妙な金属片は墜落現場とされているところでしか見つからなかったのである。
調査チームは,オーロラの共同墓地にも同じような金属片が存在していそうだという反応を得たが, この墓地には125体の無縁墓がある上に,飛行船の乗員を埋葬したというマーク入りの墓石はどこかに紛失してしまっていた。
1973年の調査では,飛行船の墜落を目撃した証人を見つけ出すことはできなかったが, 事件当時15歳だった,マリー・エバンスは,死亡した乗員は身長が120cmぐらいの緑色の小人だったと人々が話していたのを耳にしていたという。 また,マリー自身は墜落現場に連れていってもらえなかったが,彼女の両親は出かけていって, 帰宅してから爆発した飛行船の残骸とバラバラになった乗員の死体について話してくれたという。
【参考文献】
『宇宙人の死体写真集2』1991年,著:中村省三


このオーロラ事件を報じた『ダラス・モーニング・ニュース』(4月19日 (月曜日)号)は,テキサス大学アーリントン校(UTA)の図書館で,マイクロフィルムから見つけることができた。
このオーロラ事件の記事は,「THE GREAT AERIAL WANDERER」と題した5面目にあった。 しかし,この5面目には16編の飛行船に関する記事があり,オーロラ事件はそのなかの小さな記事の一つであった。また,当時の新聞報道は娯楽記事の要素も大きかった。
1960年代にこの事件を調べた研究者は,当時の生き残りの者から聞いた話では, オーロラ事件の記事の署名にあるS・E・ハイデンは,綿の買い入れ業者であり,また記事のなかで合衆国通信サービス士官としてあるウィームスは町の鍛冶屋であった。
オーロラ事件は,16編の娯楽記事に囲まれた,たった一つの小さな記事だけが根拠であることを,マスコミが言及することはない。

【参考文献】
『謎解き超常現象W』2015年, 【オーロラ事件の真実,文:加門正一
参考外部=>The Wunderkammer(Mystery Airships and the Aurora UFO incident of 1897)


参考外部⇒オカルト・クロニカル(オーロラ墜落事件テキサスに眠る何か)

参考外部⇒FC2・海外の妖しいBlog記事から(テキサス州オーロラ: 19世紀の西部での UFO 墜落事件)

参考外部⇒怪奇動画ファイル(100年前のUFO墜落事件!オーロラ町にエイリアンの墓もあった!

参考外部⇒NAVERまとめ(オーロラ墜落事件(1897))

参考外部⇒実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話(元祖ufo墜落事件)

参考外部⇒ネタ袋([UFO]オーロラ墜落事件)

 Copyright (c) 2017-2019. Minoru Oomiya